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第1話「犬」2020.4.14 第2話「カラス」2020.4.22 第3話「ヤモリ」2020.4.23 第4話「天井の羽根」2020.6.17 第5話「バハドゥル・カーン」2020.6.24 第6話「テレビ出演1 プロデューサー」2020.7.4 第7話「テレビ出演2 演奏」2020.7.4 第8話「魔術師」2020.7.6 第9話「タブラ奏者1 サンタ・プラサッド」2020.7.15 第10話「タブラ奏者2 キッシェン・マハラジ」2022.9.22 第11話「蚊」2022.10.1 第12話「ブータンの人たち点描」2022.10.6 第13話「ベンガルおじさん」2022.10.8 第14話「公務員たち」2022.10.6 第15話「喧嘩」2022.10.14 第16話「ラマ教」2022.10.17 第17話「コンサートでのハプニング」2022.10.29 第18話「タブラの流派のお話」2022.10.29
ここでは、インドでの体験、面白かったことや、感慨深かったことを通して、印度の人々の印象を書いてみようかと思います。ルポとか記事ではなく、あくまで個人の感想でなので恣意的だったり、また読む上での潤滑油としての筆の突っ走りもあるかも知れません。一時、こういった類いの旅行紀や滞在の体験記がたくさん出版されたため、余りめずらしいものではないので、読者を得られるかどうか分りませんが、そこはかとないおかしみを求めて、書けていけたらと思います。思い出したものから、少しずつ書いて行く予定です。インドも大きく変わってきているようです。そういう意味では40年前のインドを描くというのも、悪いものではないでしょう。順序は全く時間軸に沿ったものではなく、時には日本でのことも入れてしまうかも知れません。
長くいると、えらく信用されてしまいました。あれは、半年くらい経った寒い冬の頃、コルカタですから雪が降る訳ではないのですが、2月だったか、結構寒くなるものです。その当時、経営しておられたのはお母さんとその息子さんペンバ氏の二人だったんですが、娘のいる所へ会いに行くというので、十日間くらいだったか宿を空けるということになりました。えっ?その間、宿泊客はどうするの?とまあ当然そう思いますよね。するとその間のことは「あなたにお願いする」というのです。でまた、えっ?と。
あの僕「骸骨人」と言いたい、もちろんすぐ「ホワイ?」と訊きました。だって使用人は居るし、他に誰かいるでしょう、と思ったからです。ところが日本の常識は通用しないようでした。結局すぐに引き受けました。それだけ厚い信用を受けているから、というより、まあ、他に頼る人がなかったのでしょう。そこは日本人、「よし、ならば引き受けよう」と固い決意のもと、という程のこともない、何しろ次々と新しい客が押し寄せるというような所ではなく、私のような長期逗留者とか、その辺はまた別の所で書けたらと思いますが、いろいろとは言っても縁故や人伝で来るような人しかいなかったので、お客に対する心配はいりませんでした。
さて話変わって、インドには路上たくさんの犬がいます。中型犬ばかりとは言っても、やはり恐ろしくはあります。が、大抵明るいうちはその辺で寝そべっていて何もしません、ただ寝ているだけ。しかし、夜になると動き出して、本性を出して、敵対する犬同士がいがみ合ったりするので、途端に人間は近寄らないようにします。インドの人は、その辺慣れたもので、扱い方をよく知っています。各国の事情というものがあるので、今外国の価値観で糾弾するというようなことはしたくありません。ただ、事実を書いて行こうと思います。
「犬も歩けば棒に当たる」という諺があります。意味は何でも「じっとしていてはダメだ、動けば何かきっかけのようなものにぶち当たって、運命が開かれるかもしれない」というような意味があるそう。また、これは新しい解釈で、本来は「ウロウロするんじゃない、ろくなことないぞ」というのが正しいことらしい。インドの犬は正にこの本来の意味で生きているのかも知れません。人が犬をコントロールする方法は、そう、この棒なんです。太いんです。その太いので思い切りぶん殴ります。背骨の辺りを。折れたらどうすんの、とか余り考えてないように見受けられます。「キャイ〜ン」と啼いてすごすご退散。人間の怖さ強さを思い知らせればいいのです。それが現実です。ただその分、犬狩りとかはありません。同じ所で生きていても、違う人生を送っているのです。彼らは彼らなりに、好きなように生きて、インドという地を人間と共有しているのです。
前置きとしての予備知識は伝わったかと思います。さて、そのボーディングハウスに、1匹の犬が何時の頃からか、いつくようになりました。ごく普通の色柄、黒と茶の斑、腹面が白っぽくちょっと明るい、というような、若いからか少し細身でしたが、インドでは一般的な犬でした。ただ寝ています。別に飼われていたのではなく、誰が構うという訳でもありません。多分、本来はその辺の路上で生まれ育ち、ウロウロするうちにそこに到達したのでしょう。確かそこは5階にありました。まあ、全て偶然がもたらしたもので、それを誰も気にもとめません。ドミトリーというよりはボーディングハウス、つまり賄いがついてるので、希望の宿泊者には3食作ります。私もそれを食べていました。ティベット人、つまりヒンドゥー教徒ではないので、いつも牛肉のカレー、その方が安いと聞きましたが、「日本でこんなに牛肉喰ったことない」というくらい、毎日食べていました。その残りでも食べていたのでしょうか。
昼の間は、スンダリという名の、若い女の子が綺麗に拭き掃除した、冷たいコンクリに腹を載せて、その犬は安心し切って寝ています。でも、夜9時だったか10時だったかになると閉門の時が来ます。するとママさんがかんぬきに使う太い棒を手に持ち、どすんとコンクリの床を打つや、うなだれた犬はそこからとぼとぼ立ち去って行きます。多分次の朝まで、階段で待っているか、路上へ降りて、元気に跳ね回っていたかでしょう。しかし、すぐに動き出さなかった時などは容赦はありません、すぐにその棒で突っつかれます。時にはその役目を隣に住む坊やが買って出たりすると、途端に力が入るというか加減ができません。それが、ちょっと気になっていました。
そんな所にある日、前段でお話ししたように棚から何かが落ちてきたかのように幸運がめぐってきて、突然の留守居役の依頼により「一国一城の主」になってしまいました。期間限定でも構いません。こんな機会は又とあるものじゃありません。−−−とは言っても「この隙に」と特段悪いことや私利私欲にまみれたことをやり始めた訳ではありません。当然賄いのためのスンダリ母娘がいたり、他の宿泊者達がいますし、引き受けた以上責任というものがあり、信頼を受けたからには全く落ち度のないように事が運んで行くのを、しっかり見守っていくしかありません。もとよりそのつもりです。お殿様は気分だけで、本当は臨時管理人です。何しろそのフロアーの鍵まで預かったのですから。
入り口の扉の朝と夜の開閉は当然自分担当ということになり、初めてその重いカンヌキ棒を手にしました。そして最初の夜がやってきて、閉門の時「さあ、出るんだ」とばかりその犬をドスンと、‥‥追い出さなかったのです。これだけは「我意」というものが、どうしても働いてしまいました。おかげでその十日間というもの、ずっと犬は部屋の中にいることができました。きっと向こうも、
「なぜだろう?」
と思ったことでしょう。でも食べ物をやった訳ではありません。ただ夜、追い出さなかったのです。期間限定のお殿様になってやったことはただそれだけです。
2、3日たったある夜、寝ていると、妙に掛けていた毛布が重く感じます。
「ん?」
と思ってそっと目を開けます......。
インドにはこれまた野放しの、日本人から見れば「巨大」な30cmくらいのヤモリがどの部屋にもいます。彼らにも縄張りがあるようで、時々追っかけっこをしたりしますが、サルも木からで、壁を天井を掴み損ねて、寝ている上に落ちてきたりします。その重みにしてはちと重い、といぶかしみながら。
な、何と中に入れた犬がベッドの上、私の横で寄り添うように寝ているのです。
「それが?」と思われるむきもあるかも知れませんが、余りインドでは見かけない構図です。
第一、その当時「犬を飼う」なんていう概念は、余りインドになかったことだと思います。日本で言えばカラスのような存在でしょうか。カアカアうるさいし、時々ゴミをあさって散らかす、困ったもんだが、さりとてまあ、向こうもこの自然界で生きてる訳だから、皆殺しという権利も人間にはなし、といったような。そこら中にいる困ったもの、といったカラスと同じような存在。それを敢えて飼うというような、そこまでの余裕は当時のインド人には、おそらくなかったんじゃないかと思います。
ところがこの懐きようです。このことって、いくらインドの現実の中でも、犬と人間の関係に完全な「断絶」のようなものができていた訳ではない、ということの「あかし」のようなものではないでしょうか。おそらくその犬も、この特例を許してくれているのは誰か?という問いのあと、
「ハハーン、あの日本人に違いない」
と気付いたに違いありません。そして、「恩返し」ではありませんが、いつの間にかちょこんとベッドに乗って親愛を示そうと。こんなとこ綺麗好きな宿主のママさんに見つかったら大変です。何しろ私だけ、特別に丈夫で綺麗なベッドで、しかも信仰厚いラマ教の結構立派な仏像の安置されている部屋で寝ていたのですから。でも不在です−−−。
「あんしん、あんしん。」
とまた寝入りました。寒い頃だったのでちょうど良かったのです。犬もそんな柔らかで暖かい所で寝たのは、多分生まれて初めてのことだったでしょう。
やがて約束通り、家主のお二人は帰って来たので鍵を返し、その間、お客から徴収し保管していた宿泊料を全額渡し、感謝され、私の役目は終わりました。また従前の一宿泊客に戻ることとなり、当然その夜から犬は追い出されることになりました。しかし、どうもその後その犬は姿を見せなくなり、何処かへ行ってしまったようでした。せっかくいい住処を見つけたのにまた追い出された、という失望感から、
「もういい!」
と、飛び出して行ったのでしょうか。よく分かりませんが、余り気にも留めていませんでした。
ひと月ぐらい経った頃、もうかなり暑くなっていました。段々暖かくなる、というような感覚ではありません。春になるといきなり暑くなります。まぶしい、ホコリっぽい道を、ボーディングハウスから少し行った所にある郵便局に向かって歩いていました。その時、いきなり犬が道の脇のある家の階段の下から、慌ててもぞもぞと這い出てきます。そして尻尾を振って体を寄せて来たではないですか。よく見るとあの犬でした。
「なんだ、こんな所にいたのか!」
と、嬉しさの余り声をあげてしまいました。
それにしてもよく私だと気付いたものだ。ずっと通るのを待っていたのだろうか?そこを通るなんて知る由もないことなのに。
コルカタには古い建物がたくさんあります。イギリス統治時代の名残のようです。中にはずいぶん立派な邸宅のようなのもあちこちあったりします。そこまででなくてもちょっと大きいものになると、入り口が少し高く、上がるためのコンクリ製の階段がしつらえられています。するとその下、または裏というものができます。普通日本だったらこういうものができないよう左右を蓋をする、または全部コンクリで固めてしまうんでしょうが、インドはそんなもったいないことはしません。当然そこには狭いながら空間が生まれ、犬達にとって格好の隠れ家となります。すぐにその犬は自分が這い出てきたそこへ、私を案内するそぶりを見せます。「なんだい」とついて行って、体をかがめ覗いてみました。
すると、その狭い隙間には生まれて間もない子犬が5、6匹寄り添って母犬の帰りを待って「クンクン」と啼いています。その犬が雌犬だということは分っていましたが、あのとき妊娠しているとは思ってもいませんでした。もともとほっそりした若い犬だったので、そんな風に見えなかったのかも知れません。
「うわ、子供が生まれたんかあ!」
何だか異国で家族が生まれたような、幸せな気分にもなりました。その現場に立ち会えたような。あっ、でも言っておきます。だからと言って飼おうとか思った訳ではありません。そんなことできません。こっちはただの異国の者、過客にすぎません。覗いたのはその1回だけで、その後またその犬に遭うことはなかったです。でもその時、母犬は大変満足そう、仕合せそうでした。その記憶は今でも鮮明に残っています。若い犬は棒で打たれながらも、諺のもう一つの意味、「歩き回って幸運を探す」というのを実行していた訳で、そしてそれからもその「生命の基本方針」を続けていったことでしょう。きっとその子孫達は、繁栄かどうかは分りませんが、今もコルカタでその生命の連鎖、サイクルを繋げていると思います。犬達よ、永遠なれ。
(第1話「犬」終わり)2020.4.14
さて、地上はどうでしょう。インドの現実が広がっています。すぐ眼下は鉄くずの集積場になっていました。全体は何十メートルもある敷地で、そこを波を打ったような鉄板とかで区画分けをし、それぞれにトラックがやってきて赤茶けて、さびだらけの古びた鉄屑を降ろして、それをまた山のように積み上げて行きます。その鉄くずの山の壁がこっちの煉瓦を積み上げてできたビルのほんの3メートルほどまで迫っています。鉄の山の上には作業する人が乗っていて、手に鉄棒を持ち、その先端についている円柱状の重い鉄塊で、どすんどすんと空き缶とかを押しつぶしてはいましたが、必死の様子でもなく、何だか少しのんびりしたものに見えていました。
その周辺には路上生活者達がいました。表通りなどは、うっかり遅くなって真っ暗になった頃に帰ると、舗道上は布を敷いて眠る人であふれ、踏んずけたりしないよう、抜き足差し足でそっと歩かなくてはならないくらいです。しかし、その区分けの鉄板の壁に張り付いたような形で、何処からか、かき集めてきたような材木を使って、小屋を作り付けている一家が住んでいました。背の高い、痩せて、ほお骨の突き出た、それこそ精悍な顔つきの父親が、一家を率いてるといった感じで、表の路上で、取り壊した家から出る古い木材、割れた板を縄で縛って束ね、燃料とかで売れるんでしょう、汗を流して毎日一生懸命でした。
彼の家族もまた一日その辺で働いています。こちら側のビルと、鉄くず置きの仕切りの鉄板の間の地べた、まあ、路地とでも言うんでしょうか、そこに座って作業をします。前に一個の煉瓦、手には金づち。古板から出てくる折れ曲がった釘を煉瓦に載せ、金づちでトトンと叩けば、あら不思議、ほとんど一、二発で真っすぐに直します。サッと手をすべらせ、真っすぐになった釘を横に払い、次の曲がった釘を煉瓦に載せ、またトトン。この繰り返し。簡単そうに見えても、長年やってるから1回2回で直せるんでしょう。これが妻の仕事、あ、いや、妻だけではありません。おばあさんもむすめ達も、皆周辺に座ってやっています。5、6歳の女の子まで本当に器用に手を動かして。(赤ん坊だけが、おしめもせずにそのでこぼこの地面の上にオッチンしています。)手も動いていますが、口も動きます。会話は何やら、常に弾んでいました。
そのすぐ横の方では、家はあるが、仕事もせずにブラブラしている若い連中、若者が、円盤でできた玉突きゲームのようなのを、これまた日がな一日飽きもせずやっていたりしました。何ともコントラストの激しいもの、彼らとて多分、怠け者というのではなく、仕事がないからそうしていただけなのでしょう。
さて、いよいよカラスの登場です。このカラスがまあ犬に負けず劣らず沢山います。真っ黒ではありません。ちょっと小型で、肩の辺りが灰色がかっています。よく知りませんがひょっとしてこれを「ワタリガラス」というのでしょうか。「どうして机に似ているのでしょう?」というやつです。いや、それはどうももっと大型のようで、どうやらイエガラスと言うようです。まあ、ここは動物専門ではないので、これ以上の詮索はやめておきます。別に日本式の真っ黒のもいるらしいんですが、見かけたことはついぞありません。で、このお家のカラス君の方が、見ていると鉄くずの山に飛んできて、針金を丹念に物色し、やがて1本ずつくわえては飛んで行きます。一体何にするんだろう?全く分りません。
カラスというのは「何でも食べる」というのが通説のようです。もちろん「屍肉」もです。だから、ガンガー(ガンジス川)のほとり、遺体の焼かれるガートの周辺にはこのカラスがたくさん住んでいるそうな。何とも薄気味悪いですが、これも大自然のサイクルの一つということでしょう。路上に、何か食べものをうっかり落したとします、するとすかさずカラスがやってきて、さっとくわえて持って行きます。「ちっ、やられたか」と、まあ、別に落ちたものを拾って食べるわけではありませんので、そうは思わないでしょうが、路上を綺麗にしてくれていることは確かです。しかし、それにしてもですよ、「針金を喰うカラス」ってのは聞いたことがありません。でも、目の前では日に何本も何本も。
日が暮れると、カラスは帰って行ったのか、姿を消します。人も仕事を終えて、夕食の準備となります。そういう薄暗い頃、先ほどの一家の前を通ったりすると、路上、ロウソクをともし、子供らが集まって何かしています。「何してるんだろう?」と思って覗いてみると、ノートを広げて勉強をしているんです。
やがて冬が近づき、木の葉が落ちる頃になりました。インドでも「落葉」ってあるんだ、とその方が少し驚きでした。一年中暑いんだったら、一年中緑の葉っぱが生い茂ってるんだろうと、何となく思っているもの。その大きな葉が一枚また一枚と落ちて行き、やがてすっかりなくなって、枝がむき出しになってしまいました。全ての木々がそうなったというわけではなく、落ちる木もある、ということなんでしょうが、喬木の多くが枝になりました。するとどうでしょう、謎が解けるときが来たのです。
ことほど左様にインドの生き物、人々はたくましくできていて、驚くようなことがしばしばありました。
過酷な自然や、過酷な状況を、知恵と工夫、バイタリティで乗り越えて行く。
音楽でもそうです。深く静かで、瞑想的な面もあれば、やがてとんでもなくエネルギーに満ちあふれたものになって進んで行きます。インドの産業と同じようにインドの音楽も、広がっています。
両手を広げ「こんくらいのが前の道にいた」とか言うインド人もいました。この手のことをインド人はよく言います。人を驚かせるのがインドのジョークの基本、ちょっとでも相手が混乱したりすると、してやったりと喜ぶ、という図がよく見られます。「俺は騙されないぞ」とか身構えるのはやめましょう。そういう「文化」です。
蛇だったかトカゲだったかヤモリだったか忘れましたが、「タッカック」というのがいるそうです。樹上にいて下を通る人がいると、真上から落ちてきて、頭頂部に噛み付くとか。毒持ちなので人はイチコロです。へえー、とちょっと驚いてやることです。意地悪ではありません。礼儀です。これは私が帽子をかぶっていたため、
大分年齢を重ね、髪がうんと薄くなってからのこと、つまり今までの話とは違い少し時が経ってからのことですが、その頃はもう、直射日光がかなりこたえるようになり、帽子というものを探した訳です。しかし、いいのが見当たらず、結局クリケットの審判用の白いのを買い、いつもかぶっていました。それがまた、彼らのユーモア精神に火を点けたのでしょう。
「お、お前、ハ、ハ、ハゲてんのかー!ヒーヒヒヒッ、ヒヒッ、ヒッ‥‥、クークククッ‥‥、そ、それでこの帽子を‥‥、ハヒハヒハヒ‥‥、ヒヒッ、」
いや、何だか脱線気味です。要するに、こんなふうなジョークや笑いの種を生活の中に見つけて、インド人も生きているということを知ってもらいたかったわけです。結局その帽子はホーリー祭の混乱の最中、見知らぬ若者に「これおもろい」と、持って行かれてしまいました。これらもその一連のジョークの中に入ります。すべて「あっはっは」です。
話も時代も戻して、ヤモリのこと、彼らは逃げません。虫を捕食するのが仕事なので、人が近寄ったくらいで逃げていては始まりません。暗くなり、灯火に虫が集まってくるのをじっと待っています。壁の色はだいたい薄緑色に塗られていることが多いので、彼らもその薄緑に変身しています。樹上などでは保護色よろしく、グロテスクな色にもなるのでしょうが、部屋では近寄っても余り気味の悪さを感じさせないので、よく観察してみました。その方面のマニアではないので虫眼鏡なし、不確かなことしか言えません。が、とある驚くべきことを発見してしまいました。
頭の両側には耳の孔があります。そこは両生類のカエルとは違います。水に潜ったりはしないので。
ははーん、こりゃ大分インドの「文化」に染まってしまったんだな、と思われることでしょう。確かにここには誇張があります。それは「景色」です。何しろ壁に張り付いている生き物ですから、そのいくら大きいといってもコモドドラゴンほどでもなし、壁から2㎝の高さ位にあるその孔に、目を持って行くのは不可能です。特に私はほお骨が高いので、いくら壁に押し付けても、壁が窪まない限り見られません。そこまで硬くはありません。
しかし、灯火に大きな蛾が飛んできたりします。
要するに家を守っているのです。日本語の意味そのままです。そして「犬」のお話の所でもちょっと触れたように、どうも縄張りを持っているようなのです。その辺も日本のとは大分違います。確固たる「我」を持っているというか。「一寸の虫にも五分の魂」と言いますがインドなら、「一尺のヤモリにも五寸の魂」でしょうか。「根性」と言ってもいいかも知れません。逃げも隠れもせずその部屋の領有権を争う、狩猟家といった感じ。
やはり、虫は灯火に集まるもの、それを求めて隅に追いやられている弱者でも、危険を冒して領界侵犯せざるを得ないことになります。しかし、勝手にひかれた目に見えない線を超えると、より大きい方のが、荒くれて迫ってきます。追い払われた方が逃げ惑い、手を滑らせるのです。かなりのスピードで追います。素早く逃げるためのテクニックとして落ちるのかも知れません。
そういう関係を続けていると段々愛おしい存在になってきます。まあ、ちょっと日本に移入というわけにはいかないでしょうが。日本で同じような商売をしている者達が、被害を受けること間違いなしです。日本固有のヤモリとか、わが部屋にもたくさん生息するハエトリグモとか。猫を飼っている家では、猫が無関心ではいられないと思います。必ずちょっかいを出します。この点も不思議ですが、インド人は何故か余り猫を飼いたがらない、と言うか、ほとんど興味ないようです。飼われてないというより、野良でも少ない。時たま屋根の上を歩いているのを見かけるくらい。その辺はコルカタだけのことなのかは分かりません。
コルカタの発電所の所長が配電盤を前にして、こんな独り言を言っています。
日本の田んぼの水の配分に似ていなくもありません。わずかな谷川の水で水田を作ってる村人達は、厳格な管理の元に時間を決めて水の向きを変えているそうです。あ、いや、全然そういう意味では似てないですね。何の前触れもなく適当にストップさせるだけですから。配電盤の前の人には、市民の嘆きの声や怨嗟の声は届きません。「平等」とはこういうことなんでしょう。
電気が通ってる限りは、夜中でもつけたままで寝ます。さすがに常に風が当たると、血行が悪くなってしまうので「消した方がいい」という気がしますが、毛布を頭からすっぽりかぶって、ぶんぶんファンを回して寝るのがインドの流儀です。
さて、先生のプロノッブさんの家での出来事です。あるとき尋ねると、部屋のペンキ塗りが始まっていました。家族総出で、慣れない作業に挑んでいたのです。どうもこういうことって、インド人苦手のような気がします。そもそも「ドゥーイットユアセルフ」というような概念がなく、ちょっとしたことまで、それをやる人(あえて「その道のプロ」とは書きません。これが今回の「伏線」のようなものです。)にやらせる、というのがインドの生活スタイルです。それによって多くの人が生きて行けるわけで、アメリカ人のように「家まで自分で作ってしまう」というようなことでは、そもそも社会自体が立ち行かなくなります。多くの人が、ちょっとした仕事で生きているのでした。
次の日また訪ねると、見知らぬ男が入って塗っていました。「高い方はもう無理」ということで、連れてきたそう。しかし、これがまた、どう見ても下手、と言うか、余りにもあんまりなので、呆れてしまいました。はっきり言って「常識」というものがないんです。今から塗ろうとする部屋の家具とか電気製品とか、汚したくないものは、普通外に出すでしょう。それをそのままで塗る、だからペンキのしずくがテレビや棚にかかる。でも皆「ふーん、そうなんだ」と見てるだけ、まるで「運命」の前に、あらがう術を持たないかのような人達。
高い所は木製の脚立のようなはしご、つまり下がえらく広がった、A字型のはしごを壁にかけて塗っていました。もちろん暑いので、シーリングファンは回っています。私は用事があったのでその辺まで見た所で外に出て、夕近くまた帰ってきました。すると事件は起こっていました。
この後すぐくらいに私は帰ったようで、そのときプロノッブさんは奥さんに向かって、こう言っていました。
--しかし、これはどう考えてもおかしい、何しろ言葉の向かうべき相手が違うだろう!--
もし、その場に私がいなかったら、話はこれで終わっていたでしょう。しかし夜になるとプロノッブさんはこう私に言ってきました。
それからも、息子である所のキリット氏−−彼はサロードをやらずシタールを父から学び、少し上の兄がサロードを受け継いでいました−−の度々の誘いに従って、よくそちらに伺うようになり、そこに来ていたタブラ奏者、プロノッブさんとも交流が広がって行くことになりました。
その時は日没頃出発したので、演奏するには9時には着くだろうから、そろそろ着かなくては、とか思いました。しかし、着きません。
さて、着いたのは夜もとっぷりとふけた、真夜中0時過ぎ頃だったと記憶しています。それに、どうも会場の周辺には何もないよう。一体どんなところ?と一人で幕の外へ出てみると、そこは会場から漏れる光で、新鮮な緑の水田がぼんやり見えはすれども、その背後は漆黒の闇に包まれた空間がどこまでも続くという別世界でした。カエルや虫の鳴き声だけが、うるさく聴こえ、すぐその辺の草むらからコブラでも出てきそうな感じだったので、あわてて中に引き返しました。
インドには、舞台作りの職業集団があるようです。よく知らないのですが、そう確信できるのは、仕事の的確さ、またプジャ(お祭り)の多さから来る、にわか舞台の頻繁な必要性があるからです。彼らは、日本のような金属パイプではなく、インドに生育する節が多く、肉厚が3センチくらの丈夫な竹(バンスリーに使う竹とは全く正反対の性質を持つ竹です)を麻ひもで組んで、街の辻つじに、一晩で構造物を出現させたりします。それを白い布で覆い、神像や花を飾ったりし、浄められた舞台に仕上げるのです。
その時の舞台は白い幕が幔幕のように周囲にめぐらされ、小さな体育館ぐらいの広さの会場の仕切りとなり、押しかけてきた近在の村人達を、熱気むんむんと言った状態で包んでいました。典型的なプジャの催しのようで、その目玉として呼ばれたのでしょう。普段、あまり古典音楽など聴いたりしない一般民衆にも、有名な奏者を呼んで、一つ高邁な音楽を聴いて、伝統文化を味わう時間を持ってもらおうという、主催者(多分村の有力者、お金持ち)の意気込み。それに応えるべく、1、2時間とかではなく、新幹線なら日本の端から端まで移動するような時間をかけて、演奏に赴くんです。いやー、普通に疲れます。それも演奏の直前、しかも日付変わって到着するという、インドでは当たり前、日本では「とんでもない」「無茶だ!」となるプラン、つい「旅の疲れは?」と思ってしまいますが、何でもそうですが、そういう「概念」をもたない人には、あまり関係ないようです。これが日常であり、こうやってインドの音楽家は収入を得、家族を養っているわけです。
休憩もそこそこに、すぐ舞台へ移動し、私も一緒にそこへ。かのグレート・ウスタード・バハドゥル・カーンの真横にでんと座りました。不思議とあれだけ苦しかったお腹具合も、その頃には少し楽になっていました。
しかし、その時の私は、ちょっと別のことを考えていました。共演者のタブラ奏者のことです。出発前、相手タブラ奏者の名前を訊くと、マハプルシュ・ミシュラ氏とのことでした。
当時、まだそんなにインド音楽は日本には紹介されておらず、LPレコードとして販売されていたものは、それこそラヴィ・シャンカールかアリ・アクバル・カーンしかありませんでした。そしてタブラ奏者はそれぞれアララカとマハプルシュと相場は決まっていました。そのあんまり知らない中で、世界的に有名なマハプルシュ・ミシュラの演奏が間近で聴けるとなれば、心弾みます。
「その違いに何か意味があると言うのか?」
さて、名前を尋ねるような時間もなく、すぐに演奏が始まりやがてタブラが入ってきます。すると、
帰ったのが何時で(多分朝)、どんなふうに帰ったのかとか全く記憶は残っていませんが、1日置いてプロノッブさんの所へ行って、体験を話しました。すると
最近の若い奏者は、妙に老けた演奏をするので、面白くないと言うか、あまりにもこましゃくれた印象を受けてしまいます。早くから「固まり過ぎ」、小学生が飽和状態、ティラクワ状態、これはやはりインドでも、何か「文明の変化」とでもいうものが起こっているように思えます。音楽学校が公立私立ともに整備され、「昔ながらの教え方」というものは、今の「民主主義」の世の中にはそぐわない、唾棄すべき「旧弊」として、追いやられる運命にあるのでしょう。それに、繰り返し聴くことのできる機器、名人の動きまで仔細に観察できるビデオ動画、これが普通に出回っている状態で、その表現を押さえた練習ばかりを強いるのは、土台無理とも言えます。
話は飛びますが、サビール氏の所へも習いに行くようになるのは、この初めて会った時から何年か経った頃です。でも、もうその頃にはすっかり落ち着いてしまっていて、あのとき見た、昔日の面影はほとんど残っていませんでした。反対にバハドゥル・カーン化していて、それこそ鷹揚に迎えてもらい、肩をポンポン、「なに、ジャパニ、まあ、よく来た、ちょっとひいて見なさい」というような調子(本当は何も言わなかったのですが)。「ちょっとムリして貫禄つけてるんじゃない」と思わなくもありませんでしたが、嫌みはありません。多分、本人も少し緊張していたんじゃないかと思います。
バハドゥル・カーン氏にはその後も何度か演奏会に付いて行きました。さすがに、市内の会場では、舞台で真横に座ることはなかったのですが、そのたびに録音しました。後になって彼の若い頃の動画を見て、「ヘー、結構アグレッシヴだったんだ!」と思ったりしましたが、その頃はとにかく「スイート!」、誰も真似のできない感覚でした。それに比べたら、アムジャッドのはまるで無機質な、ちょっと薄気味の悪いような、弦がベロベロしてる音の羅列のように聴こえました。ファンの人には悪いですが、その頃はそんな印象を受け「好きになれないなー」と思い、一方、バハドゥル・カーンは抜群の指のソフトなタッチで、甘く、美しいメロディーを紡いでいて、これぞ!と大いに思いました。まあ、もっとも「これ以上ない」と思った甘さは、あの車中で食べたダヒの方だったかも知れませんが。
しかし、録音はここに描いた最初のが残っているだけで、他のは持っていません。後でダビングして日本から送るといくら言っても、ご子息のキリット氏に信用してもらえないと言うか、理解してもらえなかった、といった感じでした。
今現在のインドのテレビというのは、正に多チャンネル。何十あったかちょっと忘れてしまいましたが、一通り「何やってるかな?」とぐるりとチャンネル一回転して内容を確認するだけで10分ぐらいかかったように記憶しています。こっちの方が最近の記憶なのに大分曖昧です。30いくつだったか。しかしそれは多分2000年代以降になってからのこと、当時(1980年)は白黒で、チャンネルもほんのちょっと、やってるのは古い映画、鍵のかかったテレビの扉を厳かに開け、家中みんなで鑑賞するというようなものでした。
後、ローカルのチャンネルが一つ。コルカタ、当時はカルカッタ、は西ベンガル州なので、‥‥ついでに書くと、じゃあ東ベンガル州ってどこにあるのという気になってしまいます。以前は一つのベンガルという大守の国であり、それが独立のとき、東西に分かれてしまったということです。で、東は?はい、それが現在のバングラデシュです。だから東ベンガル州というのは、ないんです。
ここでの番組はやはりそれらしく、ご当地ものの紹介、ということがメインとなっています。実は、そこのプロデューサーがプロノッブさんの近くに住んでいて、親交が前からあったようです。そのあたりはカルカッタでも少しはずれにあたり、のんびりした風景の広がる、しかし田園風景でもない、古くから住んでる人達で守られている、と言ったような町(村)でした。
「テレビに出てみないか」
「そんなー、習ったことそのまま叩けばいいじゃないの、それがどうして?」
しかし、まあ、自信はさておき、「面白そうだ」という気もしたので、OKしてしまいました。やがて、そのプロデューサーと会うことになり、会っていろいろ話を詰めて行きましたが、初めはなんかとんでもないことを言っていました。何しろ、「これは日印の文化交流だから、インドばかりじゃなく、日本の文化の紹介もしてくれ、そうだな、1、2曲日本の歌でも歌ってくれ、そうすれば両方の文化が紹介できるじゃないか」、というようなことでした。
私は真に受けてしまいました。その後すぐ、手紙で日本の友人に「中島みゆきの楽譜を送ってくれ、俺はインドで『時代』を歌う羽目になった!」と書き送り、その練習もやりかけていましたが、「あれなしな」と、後でプロノッブさんが連絡してくれました。拍子抜けはしましたが、内心そりゃその方がいいに決まっている、と安心をした次第。
泊っていたティベッタンボーディングハウスには、何故かギターが1台置いてありました。それも和音が弾けるのが。インドではこれは大変めずらしいことで、たとえあったとしてもいわゆるインド式のハワイアン、弦高の高い、フレットはついていても、弦を押さえることのない、スライド式のものばかり。なのに、誰が弾くというものでもなく、無造作にぽんと。だいたい、コードという概念をインド人はあまり持たないので、本来不用、多分外国映画を見て、形を真似るためだけに買ったものだと思います。映画だと、丁度日本の小林旭が肩にギターを担ぐような案配で、インドのタフガイ俳優も担いだりしていますが、この際だ、「ギターとはこう弾くものだ!」とか見せようなんて思ったわけです。「ここから新たな文化がインドに始まる!」とかの気負いでしょうか。イヤーなくなって本当に良かった。
さて、ここではその演奏のことより、そのプロデューサーのことについてもっと書いてみたいと思います。
写真でしか知らなかったので、興味津々。ここでも調子に乗って、描かれた「仏足跡」のような足形に、我が足を載せてみました‥‥、これはウソ、いくら私でもそこまではしません。ただそう訊いてみました。すると、
テーブルにつくと料理が運ばれます。すべて奥さんの手料理。それがとにかく充実したものだった、ということをよく覚えています。ベンガルの家庭料理だったので、何とかの丸焼き的なものではなかったのですが、10種位の品数の、とにかくすべて神経の行き届いた、素晴しい料理でした。日本人の「おもてなし」とかがちょっと薄くなると言うか、吹っ飛んで行くと言うか。
この美しい記憶に、泥を塗るつもりはありませんが、さあ、ここからがインドならでは、ということです。2週間くらい経った頃でしたか、今度は反対にそのプロデューサーが私の泊ってる所に来ると言い出しました。すると、いかめしい顔でプロノッブさんはこう私に言いつけます。
「ええ!そ、そんなん、できっこないよ」とは思いましたが、もうその頃はインドでの生活で、いちいちまともに取り合っていたんじゃ、「こっちの身が持たない」ということに気付いていましたので、うっちゃっておりました。どうしたらそんなことができるのか、ちょっとでも考えたら分りそうなもの、こっちは外国人で、ただの下宿人、どっかへ食べに行こう、なら分るけど。「お・も・て・な・し」なんて、とんでもない。
最終的な「詰め」のためというようなことだったのですが、そんな理由も見当たらず、多分どんな所に住んでいるのか見たかったのでしょう。それなら昼間にと思うのは日本人か。約束の日、本当にプロノッブさんとプロデューサーは、灯り一つない階段、4階だったか5階までだったかを上がって来て、二人揃って暗闇からぬっと現われました。何とも場違いな感じがしました。何しろ、こっちは特殊な区画、ティベット人の経営する小ホテル、そこにいるのは他にブータン人、ベトナム人、そして日本人というアジアでも東っぽい面々、そこへテレビのプロデューサー、いくら「こっちこそがインド人」とは言っても、その中では何とも異質に見えました。そして、時刻も夜9時を過ぎていては、言いようのない違和感。しかし、プロノッブさんは私の耳元で、こう言い放ちます。
今風に言えば「まじかよ」、といった所。こんなに遅く来るんだったら、どっかで食べてきたんと違うんか、と思うのは、やはり日本式というものか。仕方なく、料理担当の女の子スンダリに「外で買ってきてくれないか」と頼んでみる。しかし小さく手を振り、一笑に付されてしまう。エエイ、ままよ、と一人外に飛び出しました。
ところが、時間が時間、路に長椅子を沢山出してるような店も、軒並み片付けの最中。小僧さんが、手に焼け残りの石炭殻を持って、せっせと大鍋を前の路上で洗っている。それに都心とはいえ路地裏は真っ暗、そりゃ誰も買いに行ってくれるはずもない。身の危険さえ感じる。一体、インド人自身は、こんなとき、どういう解決法を持っているのだろうか?生涯の「謎」と言ってもいい。カルカッタの裏路というのはまるで迷路、普段、決して通ったりしない小径を絶望感に駆られ、当てもなくどんどん走って行くと、十軒目くらいか、ついに
またハアハアと言わせて帰り、それを皿に移し、食してもらう。確かにチキンはチキンだが冷えてるし、これまたあまりうまそうではない、薄っぺたいローティとともに。でも、何も言わず無心に食べていただきました。その辺は立派。その後はちょっとタブラを叩いてみせたり、何かの話をしたりして、「打ち合わせ」とかいうものを終え、帰っていただきました。もう11時過ぎた頃でしょうか。
日印文化交流、なかなか異文化が交流するというのは大変だなあ、とつくずく思いました。まあ、そんなこんなで、本番の日はやってくるのでした。
それを弾いてもらっていたのが「ポンリッジ」と呼ばれる、おじいさんでした。バラナシから来ているということでしたが、当時はまだ機械仕掛けのラハラマシンがなかった頃なので(ああー、機械がすべての仕事を奪って行く!)、引っ張りだこで各家々を飛び回っておられるようでした。一種の出稼ぎのようなもの。いつも時間を気にしておられたような。後年、「あのポンリッジさんはどうしてらっしゃいますか?」とプロノッブさんに尋ねたことがあります。すると、
「我々は、バラナシから来た人は、皆こう呼ぶんだ」
話は少しそれますが、プロノッブさんから聞いたこういう話では、他に「カサヘブ」というのがあります。これは「カーン サヒブ(旦那)」というものの聴き間違いであり、立派なイスラム教徒の年上に対する尊称。「イスラムの旦那」というようなことでしょうか。ですからいつも「バハドゥルカーンサヘブ」と尊号を付けて、プロノッブさんは語っていました。
その訊いた時点では、もうポンリッジさん、故郷へ帰られたとのことでしたが、そのテレビの時は一緒にスタジオでやってもらったのでした。当日、プロノッブさん、ポンリッジさん、そして私と3人で放送局へ向かうと、プロデューサーが迎えてくれ、すぐスタジオに入りました。地方局ですからこじんまりとしています。テレビ映りがいいようにと、直前に化粧室へ通され、顔にドーランとか塗られ、いざ本番。
と言うか、録画なんですね。インドでも、当時既に録画ビデオが導入されていたわけです。そこで、「失敗しても、もう一度撮り直しすればいいじゃないか」という気が起きてしまいました。ところが、そういう感覚もインド人にはありません。何でも一発です。繰り返せば経費がかさむだけです。こっちは、途中一周期空いてしまって「こりゃ、もう一度だな」と、おまけに終わりの方はポンリッジさんが、後1分という指1本の合図を、後1回と勘違いし、えらく早く終わったりと、当然「さあ」と2度目を構えていると、「あれ、あれ、あれっ」と周りのカメラや音響は片付け出します。「えっ、なんだ、終わりか」と。
少々残念な気持ちはありましたが、それで放送局を去り、帰路につきました。さあ、問題はいつ放映されるかですが、ひと月近くたった、4月に入ってからでした。もう一つ問題、その放送をどこで自分が見るか、です。泊っている所には、テレビがありませんでした。すると、同じフロアーの隣の居住者、中国人一家のとこで見せてもらうことに。当日行ってみると、いつも周辺で見かける人達が沢山集まっていました。どうも、いつもみんな、そこでテレビを見ているよう。
初めに、その音楽番組ではプロノッブさんの演奏がありました。プロデューサー氏も大変で、いろいろ考え、追加の内容としたようで、あれから決まったということでしたが、サロード奏者のジョイ・ディープ・チョードリーという若い奏者の伴奏でした。プロノッブさん曰く「ミニアムジャッドだ」とのこと。確か春なので「ラーガ・ヴァサント(春)」ターラはエクタール(12拍子)だったと記憶しています。次に司会者が私のことを紹介してくれます。
「さあ、次は日本からタブラを勉強に来ている、ミスター・アキオ・チャチャタニの演奏です(インド人に「ツチ」の発音はムリ)。彼は沢山のウースタッド(名人)について学んでおり、素晴しい演奏を聴かしてくれるでしょう。ではどうぞ!」
「ええっ!?」
でも、私の演奏が始まると、一緒に観ていた周りの人達も、「おおー、ジャパニだ!」と喜んでくれたので、気を取り直します。が、ちょっと失敗があったりの、嬉し恥ずかしのテレビ異国デビューと相成りました。
次の日、ボーバジャール通りを歩いていると、薬局の店員が手招きしています。何だろうと行ってみると
インドの恐ろしい病気の一つに「肝炎」があります。いろいろ型があったりしますが、インド人自身、多分これをもっとも怖れていると言ってもいいでしょう。黄疸が現われ、多くの人が死んで行きます。「ジョンディース」という言葉には、間違いなく皆が大きな反応を示します。ある時、私もそれに罹ってしまいましたが、その経緯についてはまた別の機会に書くとして、ここでは、その体験の中出会った、格別なことを書こうかと思います。
まだ、あまり起き上がれないような状態のとき、泊っていたティベッタンボーディングハウスのペンバ氏が
次の日「来た」というペンバ氏の声で、何とか起き上がって、ふらふら玄関の方へ出てみました。するとまだ戸口の向こう側に、壁にもたれ、だらしなく通路にぺたっと座った、ごく普通の男がいました。多分その辺で力仕事をして生きている、何処かの地方から出てきた男だったんでしょう。上は少し破れ、汚れた半袖下着のシャツ、下は腰巻きのルンギ、みんながそういう格好をしていた頃であり、何の違和感もない40代くらいの、ちょっと小柄な男でした。いや、インドだから30代かな、彼らは、ある年齢になると、急激に老けてしまうので、「おじいさん」と言っても50歳くらいだったりします。そんなにその時の彼は年を取っているようにも見えませんでした。
全く無愛想というようでもなく、少しにこっとしたような、その時こんな男に、一体何ができるというのだろう、という思いを抱いたことを覚えています。多分、ペンバ氏が誰か周囲に私のことを話し、ある友人が「ああ、それならこんなことできる奴がいる、何でも、すぐ秘密の呪法で治してみせると言ってるらしい、なんなら、呼ぼうか」と教えてくれたんだろう、と思います。だからペンバ氏も初めて会う男だったようです。
促されて彼は中へ入ってくると、こちらにとってはいつもの空間、そこですぐに治療は始まったのです。まず、洗面器を用意させました。そしてそれを食事をする木のテーブルの横、えんじ色に塗られたコンクリの床の上に置かせると、その中にいつも我々が使っている水を8分目まで入れさせました。私はその前に両膝をついています。
次の瞬間、彼は私の両手首を掴みました。右手は左手首、左手は右手首を。するとどうでしょう、水中にある彼の指の間すべてから、黄色い液体が流れ始め、水中に広がって行きます。よく見ると、それは私と皮膚を接しているところからであり、何処か一部からというようなものではありませんでした。
私の病状として黄疸が出ていましたので、目の白目の部分なんか、ほんとうにペンキのようにまっ黄色でした。ですから、まるでそれが、彼の魔術、呪術によって、この私の体から抜け出して行き、病根がすべて流れ去って行くような感じでした。彼が帰った後、ペンバ氏と顔を見合わせ
次の日もやってきて、もう一度同じことをやりました。
しかし、呪文を唱え、同じように私の手首を掴んだ途端、みるみる黄色い液は流れ出します。昨日と全く同じことが再現されました。もし、手に何か塗っているのでしたら、彼も早くから水の中に手をつけているので、そのときに溶けて流れ出さないはずはありません。または化学反応だろうか。手の中心部に透明な袋があり、その中に何か入っていて‥‥とかも思っても、何しろ、指の隅々の先端からも、同じようなことが起こっています。彼の人差し指、中指は水面の上に出ています。しかし濡れたその指と私の手首の皮膚の間からは、だらだらと黄色の液が流れ出す、そして、次には肘近くから手首までなで下ろし、まるで体にたまっている毒素を絞り出すかのようにするのです。乳搾りならぬ毒搾り。
初めは綺麗な透明な黄色ですが、すぐに白い液と混ざり合って、汚いような、いわゆる「黄褐色」の液体となって、洗面器は満たされていきます。いかにも人体が生み出した、排泄的な黄色というものです。多分、この色をはっきり見せるために、白いペーストを溶かすのであって、それが化学反応を引き起こすためのものではなかったのだと思います。
さて彼は言います。
そういうことからも、彼が「金儲けのため」にやっているとは思えませんでした。もしやっていたら、彼はすぐに「大金持ち」になっていたことでしょう。変な言い方ですが、需要は計り知れないほどあったのですから。また、同じ理由で、ペテンで金を得ようとしていないこともよく分かりました。何か仕掛けを作るんだったら、そのためだけでも、なにがしかの資金が要ったはずです。
それっきり彼は姿を現さず、こっちの病状は、まあ、彼が言ったほど「けろっと」治ったわけではなかったのですが、それでも少し軽くなって行ったようでした。何度もペンバ氏と顔を見合わせては、
バラナシにサンタ・プラサッドという高名なタブラ奏者がいました。学者的な面があると言うか、グダイ・マハラジという別名もあり、著書もあります。しかし、実際の演奏とのギャップの大きさも、また彼の魅力の一つと言えるでしょう。しかし、残念ながら、少し前に、もっと長く演奏して欲しいのに、お亡くなりになってしまいました。
ある時彼がタブラ伴奏をする演奏会があるので、前日「聴きに行く」とプロノッブさんに話すと、こういうレクチャーを受けました。
さて次の日、いよいよ演奏が始まります。するとどうでしょう、本当にサンタ・プラサッド氏はマイクから下がるように指示を受けました。どうもそれが「お約束」のようです。それだけ「タブラの音がばかでかい」ということの証明のような。バラナシ流派の人にとって「大きな音で打つ」というのは、多分「命がけ」なんだと思います。この辺ファルカバッド流派の奏者には、思いもよらないこと、いや逆に「無駄だ」と忌避されるようなことかも知れません。もっともサビール・カーン氏だけは例外で、大変に強く、マイクなしでも近くから聴けば、耳が痛くなるくらいの迫力ですが。(あっ、ほんとうに痛くなるわけじゃないですよ。)弟子にも、強い音が出るような訓練を課します。反対にシュバンカル氏の生音は、ほんとうに小さく「えっ?」と思ったことがありました。でも、ステージに上がるとばりばりです。(二人ともファルカバード。)
タブラ奏法の一つに「デレデレ」というものがあります。右の手の平を左右に振って、ペチャペチャといった感じで鳴らします。dheredhereと書きますが、この奏法の達人でもあったサンタ氏は、目にも止まらぬ速さでこれをやってのけます。手の平を使うということは、その手は誰がやったとしても、当然普段のポジションより、少し前に出ることになります。腕も伸びます。しかし、この名人はスピードがそもそも違います。鳴らした後、あっという間に手はタブラの上を駆け抜け、指先はもう床についています。その時には肘の辺りがタブラの鼓面に乗っている状態。またまた、ちょっと古い表現でほんとうに申し訳ないですが、かつてのテレビアニメ「エイトマン」の脚の動きを思い浮かべてもらえば正解かと思います。
しかし、これには付随する条件があったのでした。プロノッブさんが言うには、滑りを良くするためのパウダーをサンタ氏はタブラの前に置く、と。普通なら、そこだと指先に付けるのにやりにくくてしょうがありません。ところが彼だけはそこに置き、そしてこのデレデレの時に付けるのだと。さあ、想像してみて下さい。
まあ、ご想像どうり、これは外れました。本当にやっていたら、チャップリンの「モダンタイムス」、いくら何でもそこまではやりません。しかし、私だけは、指先のパウダーを想像し、一人笑ってしまいました。
しかし、この奏者は本当に偉大な音楽家であり、その妙技というものは、なかなか人の真似できるようなものではありません。どちらかと言えば、伴奏ではなく「タブラソロ」をより得意としていたんではないかと思います。あるときのソロでは、
先ほど「ばかでかい」と書きましたが、別に音が悪いわけではありません。言葉の限界というものです。短い表現ですべてを伝えることはできません。とにかく、どんな小さな音でもクリアーなんです....ええいっ、面倒くさい、はっきり書きましょう!この人以上の音を出す人に、私は今までお目にかかったことはありません。断言できます。
「‥‥ゴディゲナダティゴディ、ゴディゲナダティゴディ」
そして、もう一つお得意なのが、ナの連打。
カタックダンスとやるのも聴きました。息子のクマール・ラールと二人で叩きまくりです。ダンサーは多分十代の女の子。どうしてこういう組み合わせにしたのか、全く分らないような舞台でした。ダンサーはほとんど直立、どうしていいのか分らなくなり、まるで固まっているようにも見えました。ただ、足の鈴だけは鳴っているんですが、基本的なビートを刻んでいるだけです。
「よっしゃー、そんなら任せとき!」という感じでしょうか。普通、こういうとき、「任せろ」という意味は、何とかダンスができるように「面倒を見る」のが、年長者に求められることと思うんですが....例えば、簡単なフレーズから段々と難しいものを叩いて行くようにして、感覚を取り戻させる、とか。しかし、そういう思考回路には向かわず、「よしよし、何もしなくてもいい、何とか我々がこの場を持たせるから、大船に乗った気で、そこで突っ立っていればいいんだ」と。でもそれって「意地悪」に思いません?しかし、多分そうではなかったと思います。何しろ、チャンスが回ってきても何もできない、というようなレベルの人達ではありません。インド最トップと言っても過言ではありません。そんなナマッチロイこと言って、お客を失望させてもいけない、とにかく「打てっ、打つんだ!」。
まあ、その凄まじかったこと。
「ははーん、わかった。お前は『まるでキングコングの映画のようだ』とか言いたいんだろう?」
インドの音楽家というのは、本当に個性豊かで、いろいろなスタイルで「自分をアピール」というのがあって、飽きることがありません。インドへ行く前は、ごく限られた演奏家の名前しか知りませんでしたが、「こんな人もいるのか」と、驚きに満ちた思いで、その名前を覚えて行くというのが、何とも嬉しかったものでした。
さてプロノッブさんがここでも登場です。ずっと以前、あるコンサートでキッシェン氏の演奏を聞いた時の感想、「雷は轟わたるは大地は揺れるは、まるで天変地異でも起こったかのような演奏ですさまじかった」と。もっともこの話には、続きがあります。何しろその夜の演奏会は豪華メンバーで、そのあとのタブラ奏者は何を隠そうプロノッブさんの師ケラマトゥッラ カーン氏だったそうで、いきなりベナレスが生み出した大天才の演奏を聴かされた訳ですから「我が師は一体どんな演奏をすればあんなすごいものに対抗できるのだ?!」と思わざるを得なかったとのこと。しかし、始まると単なる杞憂だったことがわかったそうです。
こういうまるでベートーベンがモーツァルトと出会ってピアノを弾き比べしたとか(実際は習いに行ったのだったかな)、そんな伝説的なお話がインドにはまだゴロゴロ転がっています。何しろ演奏会といえば、複数の凄腕の奏者が一晩で競演するのが当たり前の世界なので....。この話は好みの問題であり、優劣を論じるものではありません。プロノッブさんもキッシェン氏は現代最高の三人の奏者と認めていました。あと二人とは、一人はもちろんケラマトゥッラ氏であり、もう一人はアララカ氏でした。そしてその三人とほぼ同レベルなのがサンタ氏だと。もっとも上には上があって、「なおその四人の上にもう一人いる、それがティラクワ氏だ」ということでしたが、その時点で存命だったのは三人だけで、ケラマトゥッラ氏とティラクワ氏はすでにお亡くなりでした。
ちょっと話が逸れ気味になってしまいましたが、では、何がキッシェン氏のすごい演奏を生み出す元となっていたのでしょうか?これを一言で言うのは難しい、「あらゆること」と言う人もいるでしょう。そこをこの場合「ええい!」と大変簡略化して言って仕舞えば「ターラの扱い方」です。ラヤカリとも言えます。ラヤカリには2種類あって、一つは1拍を幾つの数で分割するか、というのを敷衍していくもの、いきなり大地が揺れるような感覚に陥ってしまい、こちらの方が一般的ですが、もう一つの方は4の倍数ではないフレーズで何周期かを分割していくものです。こちらはまるで迷路の世界に踏み込んだような感じかな。キッシェン氏がやるのは後者のフレーズによるラヤカリ。ラヤカリという音楽は、一瞬「ノリ」を打ち消すような雰囲気があって、一種知的遊びのようにも思えます。「リーラー」の発露のような。
この点サンタ氏のテカはあまりに機械的すぎる嫌いがありましたが、でもきっとこの方が宮廷音楽的だったと思います。何しろそういう時代の大家は「なに、誰かの伴奏?そんなものは弟子の仕事だ!」と言っていて、自分はタブラソロ(タブララハラ、つまりタブラメインのソロだけをひくスタイル)だけを演じていたそうですから。伴奏としてのタブラの面白さ、つまりテカ以外のいろいろなソロを挿入するという演奏法を切り開いて行ったのが、実はケラマトゥッラ カーンだったということだそうです。アリ アクバル カーン氏やラヴィ シャンカール氏たちとの共演でそれは試みられ、確立されていきましたから案外新しいスタイル、インド独立後のことだったということです。反対にタブララハラの完成者は誰かと言えば、それがさっきのアフメド ジャン ティラクワ氏ということで、おそらく誰の異論もないと思われます。
さて、キッシェン氏のソロのパートが始まると「あれ、あれっ?」という感覚に襲われます。まさに迷路、どこが出口か分からなくなってしまいますが、かと言ってそれが「希望が見えない」とかの苦痛を表すものではなく、それどころかえも言われぬ独特な不思議なノリが生まれて、その大波に飲み込まれ、しばらく漂って気分良くやってると、やがて「あれっ、ひょっとしてあれが出口なんか?」と忘れていた光が差し込んできます。「まだもう少しこのままでいたいよ」とか思ったりしますが、戻ることも大切です。そうなんです、難しい数学の難問が解けたときのような快感が襲ってきます。そして最後は「大団円」(最近はこの文字を見ることが少なくなってしまいましたが、ちょっと古い冒険小説の最後には必ずこの章が待っていました)、まさにあの感じです。そうすると旋律の方がそれまでどんなにあがいていたとしても、大概全部持って行かれます。やんやの喝采、いや会場全体を包み込むような熱狂の中、そのゲームは終了します。それが競演としての演奏の全体の終わりまで何度か繰り返され、やがて(まあ、1時間後くらいでしょうか)本当の終わりを迎えます。
インド音楽の演奏にまるで「巌流島」のような「決闘」という概念を持ち込んだのは、このキッシェン氏でしょう。そういう意味では新しいインド音楽の可能性を切り開いた、歴史に残る大天才の一人であることは間違いありません。まあ、もっともこの決闘というのは私個人の感想です。そう思ってない人も多いでしょうし、中には機嫌を悪くする人もいるかもしれません。でも、個性的なインドのタブラ奏者を表現するには、それくらいのレトリックは必要となってきます。
当夜の演奏の相手はヴァイオリンの名手VGジョグ氏でした。かなり軽い感じの演奏を旨とする人、弟子のシシルカナ氏(のちアリアクバルに師事)とは正反対の人で、人によってはアメリカのウェスタンミュージックみたいだと酷評する人もいたりするくらいです。私はそう思いません、おおらかで楽しい演奏だと思いますが、でもまあ、あまりキッシェン氏とマッチするような感じは致しません。むしろそのシシル氏とだったらどんなに良かったかなんて思わなくもありません。しかし、そこはビッグなおじさん二人によるビッグな演奏というのも、ちょっと興味が湧いてきませんか?そうです、まさにそんな演奏が繰り広げられたのでした。
おそらく、それらの真っすぐに直した釘は、業者の手を通して「再生古釘」として販売されるはず。曲がった釘はいくらでも現われます。直しても直しても、尽きないようでしたが、得られる収入は、ほんのわずかだったと思います。何しろ、遠目にも光った釘ではなく、本当に真っ赤に錆びているのがわかる、大変古いもののようでした。だから、もう柔らかく、簡単に直せたのかも知れません。直して使うと危ないから、溶かして使う方がいいように思いますが、彼らの考えと言うか、システムは違っているようでした。
もっとも、これは私が勝手に思っているだけで、確かめたわけではないのですが、インドでは、たとえ学校を卒業したとしても、すぐに「就職だ」という感覚ではなく、その必要が来るときまで、例えば結婚とか、その日までは特に仕事をするわけでもなく、家で家族と一緒にいることが多いような気がします。妻を貰って一家を構えるには家族を養うための仕事がいる、じゃあひとつ誰かに頼んでみるか、というような感覚。
人生に対する考え方がちょっと違うと思います。エリート達はまた違うんでしょうが、一般の人達の「家族」というものは、大変に結びつきが強く、極端な話、家族のうちの誰か一人が、何処かにつとめておれば、それで結構、皆が食べて行けるので、兄弟、息子、いとこだろうが、一緒に暮らし、必ずしも職に就いてなくても、何となく仲良く、皆が暮らして行く、というような感じです。
しかし、そんな「勤め先」とかを持たない「路上生活者」は、また話が違います。皆、必死で何かをやっています。
「あっ、そうか、ちゃんと頑張ってるんだ」
と感心しきり。
そしてもっと見ると、字が‥‥ベンガル文字でもヒンディー文字でもない、右から左に書く「アラビア文字」なんです。それぐらいの知識は仕入れてインドへは行っていたので、驚いて「ウルドゥー?」と訊くと「ハーン(そうだ)」とのこと。おそらくウルドゥー語を話す北西地域から来た人々なんだろう。コルカタにはインドの貧しい地域から逃れてきた人々が、まともな職を得ることもままならず、路上生活を余儀なくされているという現実があります。その辺は映画とかにもなっていて、「渡河」という映画はそんな内容でした。しかし、子供でも昼間は太陽の火の下で仕事をし、夜はロウソクの火の下で勉強をする、すごい!
でも、正直、その時思ったのは、
「ここまで来てもまだウルドゥーか!?」
というものでした。
日本人だったら、普通そこの土地の言葉を勉強するもの。郷に入っては何とかです。ここはコルカタ、ベンゴリをと。ところがインドの人は自分たちの言葉を何時までも忘れません。それともイスラム教徒だから宗教的理由、コーランを読むために必要だからでしょうか。覗き込まれた女の子はこっちを見上げ言いました。
「ペンシル、ドー」
ドーというのは知りませんでしたので、怪訝な顔で、
「ドー?‥‥ディージエ(ください)?」と訊けば、
「ハーン、ディージエ」
鉛筆が欲しいんだ。
でも、その時は持ち合わせがありませんでした。
枝のあちこちに黒い塊のようなものが見えます。日本だったら「ああ宿り木だ」ということになりますが、そこでは違いました。何とカラスの巣でした。別に山に帰ってたわけではなく、すぐ近くに巣を作っていたんです。だから「イエガラス」。なおもじっと見つめると、
「ん?何だかおかしい‥‥」
そう、その巣は、あの針金でできていたのです。
「そういうことだったのか!」と大いに納得。腑に落ちるとはこのこと。トンビに油揚、カラスに針金‥‥。
日本でも枝で作った巣に、ちょっと針金ハンガーが混じったりしてることはあるでしょう。でも全編これ針金!中に卵があり、そこでひなも育つ。ちょっとは痛いだろうし、いくら寒くなったとはいえそこはインド、まともに陽が当たれば、鉄ならうんと熱くなってしまうんじゃないか?と、他人のセンキを頭痛に病むような。木も重くてたまらんだろうし、強い風でも吹こうものなら、堪えかねて太い枝ごと折れてしまうんじゃないかとか。深くじっと数秒間、たたずむのでした。
「こりゃインドはそのうちきっとすごいことになるぞ」
と思っていました。
80年代までインドは自国の産業保護という名目で、ほとんど経済的に鎖国のような状態でしたが、それがかえって発展の妨げになっていると気付き、開放政策に転じてからのインド、90年代以降は、目覚ましい発展を遂げて今も尚、進撃中です。しかし、それらの元となるのは、こういう背景があってこそのものだと思います。その当時の日本人のインドに対する印象は、無気力だとか、神秘と瞑想の国というようなものが多かったように思います。外国の旅行者がどうしても接せざるを得ない公的機関の人、つまり役人などは、確かにとんでもない所があって、それはそれで面白いので、また別に書きたいと思いますが、ところが実際接してみる一般の人たちは、日本人を圧倒するような、エネルギッシュな人達でした。
ところで、あの鉛筆、お金を渡せばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、物乞いならいざ知らず、働いてる一家の子にそういうことをすると、トラブルになったりするといけないので、自分で買って現物を渡そうかと思っていました。しかし、何やかやするうちに病を得て、急遽帰国することになったため、あとからちょっと後悔する羽目になりました。「あの時渡しておけば、もっとインドに寄与できたかもしれないのに」と言えば大袈裟ですが。「俺は後悔なんか絶対しない生き方をする」とか言う人がいたりしますが、まあ、人間後悔はつきものだと思います。何年か経って、懐かしさのあまりまた行ってみると、残念ながらもうそこには誰も住んではいませんでした。と言うか、そんな作り付けの木造物そのものがなく、かなり州政府が外部からの流入者を排除に動いたという話もあり、その辺一帯の路上ミシンの仕立て屋もすっかりなくなっていました。きっと頑張った末に、もっといい仕事と住居を手に入れたんだと思います。そう願うしかありません。
このお話では、まるでカラスの巣と流浪者の家を同列に比較したかの如くですが、そういうつもりは毛頭ありません。ただ、乏しいものを使って必死に生活するインドの人や動物の姿を、垣間見た見聞で描いてみました。
(第2話「カラス」終わり)2020.4.22
「帽子は大切だ」
と言い出し、この話につながります。その毒蛇は、どうも帽子をかぶっているのが分るようなのだ。
インドの人はあの強い直射日光の下でも、決して帽子をかぶりません。ココナッツオイルをたっぷり髪に塗り付け、クシでセット、
「これで大丈夫だ、お前もやれ」
となります。缶にたっぷりと入っていて、向かい合わせに孔を開け、そこから、かなりネトーッとしたのを手に受けて、その頃はまだあった髪に塗る。でも慣れないとかなり気持ち悪いこと請け合い。頭というより、その塗った手の方が。
いつのことだったか、ある宿屋で、そこの経営者一族の一番若い男の子が、私が入り口の机で毎日の支払いをしていると、声を掛けてきます。ほんとうに他愛のない内容でしたが、やはり、そのクリケット帽が気になり、手を伸ばして勝手に取って、自分の頭に載せます。「俺、審判」てなことをやっておどけたかったのでしょう。ところが、取った後に現われた私の頭が「輝いて」いたので、まるで、引きつけでも起こしたかのように、突然の大笑いを始めました。
そのあまりの激しさ、またしつこさに、私より、周りにいた彼の兄達の方が呆然としていました。ただ「お客様に対して失礼だぞ!」とか叱る文化ではないようで、弟に対して何も言いはしませんでしたが、何分間か続いたその間「どうなってんの」というような顔をし、こちらと視線が合わないよう目が泳いでいました。きっとその子は17、8歳には見えたんですが、本当はまだ12、3歳だったのかも知れません。インドの子供は大変ませて見えるものです。それに態度も堂々としています。丁々発止で物を売ったりもできます。あるいは、その子が宿主の息子であり、他の兄に見えたのはいとことか、いわゆる一族のものだったのかも知れません。
さて、その孔をじっと見ていて、
「あっ!」と思うことに気付きました。
‥‥向こうの景色が見えるんです!
でもチラッとではありますが、確かに向こうの明るい薄緑色の壁が見えたのです。もし細い棒があれば、例えばあのゼムピンというやつ、細長い針金を楕円形にぐるぐると、運動場のトラックのような形に巻いたもの、あれを少し真っすぐに伸ばし、そっとその耳に差し込んだなら、何事もないかのごとく向こう側の耳の孔から出てくるというような。
「えー!脳みそはないのか!」
私もそう思います。だから決してそんなことはないと思います。でもひょっとすると、その方が虫の小さな音でもしっかり聴き取れるようになるとか、小動物の脳は小さなもので、貫通する耳道をまたがなくても十分にそのスペースはある、あるいは、あの大きな目がそうであるように、実は透明なウロコに覆われているんだとか。これ以上の追求はしていないので真相は分りません。
「うわ、やっかいだ」
と誰しも思います。所がサッとこのヤモリが現われます。何と頼もしいことか。問答無用で「パクッ」とやってくれ「ハイ、終了」です。虫というのは単に気持ち悪いというだけでなく、毒を持っています。これは冗談ではありません。「何これ、知らん、見たことない」というのが飛んで来て、見事刺され、何日も痛く腫れて不快な思いをしたことがありました。蚊でも蜂でも、蟻でもありません。蟻と言えば「シロアリ」が大量発生します。3月頃でしょうか。夜の街を流して行きます。各商店の看板のライト、イルミネーションに、無数のシロアリが群がって飛び回ります。しばらくして見ると、隣の店に移動しています、そしてまた次の店へと。まるで挨拶廻りに来ているようです。はて、どこまでそれを続けるのやら。さすがにここまで多いと、まあインドの言い方「ナユタ」とか使いたくなるような数では、いかな大食漢のヤモリ君といえども手には負えないでしょうが、パクパクと食べていることは確かです。
「いいか、こっちの壁は俺のもの。お前のは反対側の壁。だから、当然こっちの壁にある電灯に来る虫は、全部こっちのものだ。ほんでもって、天井は領有権を分け合おうではないか。」
一部屋に数匹はいる者たちの間では、このような取り決めでもあるのでしょうか。この種と同じかは知りませんが、爬虫類好きな人はヤモリでもペットにしている訳ですから、インドでは犬と同じでペットにまではしないまでも、嫌ったり追い出そうというような人はいません。食べ物豊富だし、迫害受けず自由だし、まるでヤモリにとって天国のような所ではないでしょうか。これが夜、寝ていると上から落ちてきたりします。
「おっ、しめた下はベッドだ、落ちても痛くないぞ」と。
こういう環境があればこそ、彼らヤモリ一族の生存繁栄が約束されているということでしょう。ここでは日本を比較の対象としましたが、暑い地方、沖縄とかにはひょっとすると大きいのがいるかも知れません。無知なままインドでの印象を綴ってみました。
(第3話「ヤモリ」終わり)2020.4.23
「さーて、次はこの区域へ電気を送って、まあこっちはしばらくなしだな。」
多分こんな感じ。時には、
「あ、やっぱこっちか」
と気持ちが揺れたりします。その結果、電気は点いたり消えたり、その平等さに、適当に選ばれた地区はたまりません。突然の停電にすべての快楽を奪われ、
「ノーシーリング!!」と嘆く他はありません。
「何か理由はあるの?」
と思われるでしょう。はい、あります。大いにあります。蚊を吹き飛ばすためです。もしファンなしで寝たとすれば、蚊の大群に襲われ、大変な目に遭います。先ず覚えるべきインドでの生活のテクニックはこれでしょう。するとつまり、こういう夜中に電気を止められるのが一番人々はこたえます。汗みずくになって毛布から顔を出せば、わっと蚊に襲われ、パッと被ればウウッと息が詰まる、たまらず顔を出せばまたわっと襲われる。はい、この繰り返しです。実際にこういう目にあった人間のみが語れる真実です。初めは自分の出した息を繰り返し吸うことになる「密閉空間」化に堪えられなくなりますが、そこはそれ「慣れ」というやつです、仕方ありません、必ずマスターしなくてはなりませんので。
だからびっくりしたのですが、やはり仕事はすいすいと行ってるようには見えませんでした。
見るに見かねて、さっと新聞紙をテレビの上に広げました。すると、
「おおーっ、さすが日本人!」
と皆感心する。でも普通誰でもそうするでしょ、と思うんですが、どうもそうではないよう、インドでは。
この男、そこまで下手とは。「折り紙付き」と形容したいほど。なにしろ、はしごを移動するのに、ファンを止めなかったのです。無造作にひょいと持ち上げて、動かす。
「ガンッ!!」
ファンに当たる。
「バキン!」
羽根が折れる。すると、次の瞬間
「ブーン」
根元から折れた羽根が飛んでくる。少なくとも長さ50cmくらいはあり、それが入り口で見ていた奥さんの二の腕に当たる。傷を負って、血が出る。
「お前の体はワックス(ロウ)のようだ」
ちょっと頭が混乱してきました。起きたことも起きたことですが、その反応も反応。額に手を当てて「ふーっ」とかカッコつけて天を仰ぐ、外国の映画かなにかのようなポーズでも取るしかないような。
「な、何かおかしくない?」
そう言いたい所、でも素朴な意見の前にはそんなの全く無力でしかありませんでした。
「お前はワックスを知らないのか、キャンドルのことだ!」
とご丁寧に解説。つまりちょっとしたことですぐ傷ができてしまう、ということだそうだ。幸い傷は浅いようで、大したことはなかったようでした。
しかし、そのへまをやらかした男は何も叱責された様子もなく、ちょっと暗い顔、気まずそうな顔はしていても、日当を手渡されて帰って行きました。もし払わなかったら、それはそれで騒ぎが起きたことでしょう。これは、また別のお話として書いてみたいのですが、インド人というのは一人に見えても、決して一人ではありません。彼の背後にはたくさんの仲間がいるのです。
「あの男はペンキ屋なんですか?」
と訊くと、
「いや、その辺にいる男だ」
とのこと。つまり便利屋のようなものなんでしょう。あの末広のはしごを所有しているということで、いろいろな仕事を請け負うということ。
「このままでは暑くて寝ることができない。明日、電気屋ヘ行き、新しいのに付け替えてもらうから、そのファン代を貸してくれ。」
全くどうしようもありません。「やれやれ」といった感じです。結局こっちにまでとばっちりの結末でした。
(第4話「天井の羽根」終わり)2020.6.17
さて、ある日キリット氏から
「今日、父の演奏会があるから、一緒に行かないか?」
と誘われたので行くことにしました。
しかし、実はその日はお腹の具合がとても悪かったのでした。そして、ここが面白いのですが、その後、他の演奏家にも何度かついて行くことがあって、そのたび、いつも思い知らされたこと、彼らはこともなげに訊きます、「一緒に‥」と。「しかーし」それがとにかく遠いのです。「初めに言ってくれよ」と思ったりしますが、タクシーと言うか、車をレンタルしたとかいうのに乗ったはいいが、はて、いつ着くのか?1時間くらいかな、とか思うでしょ、ところが2時間経っても3時間経っても着きません。まるで、そこんとこは誤魔化して、拒絶されないよう連れて行こうという魂胆のようにも思えます。
一方、お腹の具合はどんどん悪くなり、痛くてたまりません。狭い車内で苦しんでいると、バハドゥル・カーン氏は気を利かしてくれたのでした。別の人に命じてダヒ(インドのヨーグルト)を買ってきてくれ、
「これはお腹にとってもいいんだ」
と勧めてくれました。インド式のとてもとても甘い、限りなくおいしいもの、掌に乗る素焼きの壷に入っていて、大好きなものの一つです。しかし、一口食べてみて思いました。
「食べられない。今は食べられない!」
と。お腹は「キュルルルー」です。こんな甘いものが効くはずはないし、だいいち喉を超さない。「うう‥」とかで困っていると、
「食べられないんなら窓から捨てたらいい」と言ってもらったので、その素焼きのカップごと、真っ暗闇の、おそらく田んぼのあぜ道のような所へ投げ捨てました。‥手にはその重みがしばらく残っていました。
後日談ですが、
「お前はあのとき、私がせっかく買ったヨーグルトを窓から投げ捨ててしまった」
とからかわれ、
「あ、いや、ども、あの、その‥」
こういう、ちょっとだけ相手を困らすのもインド流儀の一つだと思います。付言しておきますと、日本のヨーグルトと違って、ダヒというのはそうそう誰でも気安く食べるというものではない、ちょっとだけお高いものでした。
「さあ、ここに。」
と言われるがままに。
「一体なぜなんだー!!?」
という皆さんのお気持ちはよく分かります。
「お前に何ができるというんだ!!」
とも。
ハイ、そうです、何もできません。しかし、当時は日本人というだけで、一種「魔法使い」のようなものだったのです。何しろソニーの小型録音機を持っていたのですから。そのためだけに、息子二人は連れず、ヨーグルトまで買って気を遣って、はるばる私を連れてきたのです。まあ、実際は録音もできる小型ラジカセだったんですけど、同じようなものです。それに「sony」ではなく「sanyo」。でもインド人にとっては全く同じ、だって、綴りで見るとほとんど同じでしょ。発音も「ソニオ」と言っていました。
「さあ」
と促されて、録音ボタンをガチャっと押し込みます。それだけでも当時はなんだかこっちは緊張してしまいましたが、演奏は会場の少し上気したような雰囲気の中、バハドゥル・カーンらしい口当たりのいい、親しみやすい感じで始まりました。
「うわっ、これはすごい!」
ところが、既に先に到着して、舞台で待っていたのは、全く知らない、とても若い青年でした。はち切れんばかりの体躯、つまりまあ、かなり太っていました。もっとも、これはインドでは当たり前、立派な家庭の子女であれば、ほぼ必ず太っていました。しかし、心中「残念」と言う思いは少なからずあったのを覚えています。
だいたい、インドの奏者の大家は、相手が誰かなんてあまり気にしていません。着いてみて初めて「ああ、君か」といったようなものでしょう。若手のタブラ奏者の方は緊張し、恭しく丁寧な挨拶をしてくる、それを鷹揚に「しっかり頼むよ」と肩をポンポンしたりして励ます、という構図です。だから、名前を適当に言ったんだと思います。あるいは、その予定だったけど、都合で変更になったとか。
と、もし問われれば、困ったことになったでしょう。何しろ、インドには「タブラ奏者」というのは、それこそ山ほどいるんであって、ちょっと外国へ行く「チャンス」を掴んだ者(彼らはこういう表現を使います)が、「世界的奏者」と当地でもてはやされるのであって、元のインドでは、重鎮みたいなのがごろごろいるというような状態です。ですから、できるだけいろんな奏者の演奏を聴いて、
「はぁーっ、奏者によってこんなにも違うのか!」
と驚くのも「勉強」のうちの一つだと思います。
それに何より「バハドゥル・カーンの演奏が聴ける」というのが一番であって、相手のタブラがどうのっていうのは「小さな出来事」に過ぎないとも言えます。
「おおーっ、なかなかやるじゃないか!」
村人達も大喜びです。サロードとタブラの掛け合いが始まったりしたら、
「ワオーーッ、もっとやれもっとやれー!!」と、手を叩いて、叫んで、身を乗り出して大騒ぎです。そして会場の人々一体となって、コンサートは終わりました。
終わった後、ちょっとそのタブラ奏者に、にこっと会釈をしたくらいで、すぐ帰ったものでしたから、話をするというようなことはありませんでした。
「それがサビール・カーンだよ」と、にこにこ嬉しそうに教えてくれます。
「ええっ?ああ、ほんとうに!そうだったのかあ。それなら何かちょっと話せばよかった。」
つまりプロノッブさん自身が習った、あのウスタード・ケラマトゥッラ・カーンの息子、忘れ形見、ファルカバード・ガラナ直系唯一の後継者ということなんです。それこそ「弱冠二十歳」という年齢にふさわしい風貌、演奏でした。
しかし、サビールは、形式的に固めるより前に、その基礎となる筋肉の動き、力強さや柔らかさ、滑らかさなどを鍛える練習をとことんやらされたのだと思います。お父さんがケラマトゥッラ・カーン、お祖父さんがマシート・カーン(これまたすごい人)、この二人から習う(普段はおじいさんから)という恵まれた環境にありながらも、大切な継承者を伝統的な「基礎体力」を作ることに集中させたということです。そういうことから、サビール氏も自分の弟子に「どの辺に筋肉が付いてきたか」ということを指導してもいました(これはずっと後で分ったことですが)。
というような理由からでしょう、その時の演奏はとにかく、髪を振り振り、パワフルなとても「元気のいい」演奏でした。
間に入って連れてきてくれたプロノッブさんが、とても嬉しそうに「あれをやれ!」というので、教わったちょっと難しいレーラをやると、眉一つ動かさず、「もっと大事な練習がある」といった感じの反応でした。結婚して、初の子が生まれて間もない頃で、奥さんがまだひと月くらいの、ほんとうにまだ小さな赤ん坊を抱いて出て来て、銀の専用ケースを開けて、ご主人の好きなパン(口が赤くなる嗜好品、味は昔の仁丹そっくり)を作って渡していました。その赤ん坊が今のラティフ カーンです。
忘れられた天才と言うべきでしょう。今、サロードのトップ奏者として活躍してる、アリ・アクバル・カーンの高弟テジェンドラナラヤン・マジュンダール氏も、この頃はこの人の弟子でした。一緒に行ったダムダムの録音スタジオで師匠に命じられるがまま、マンドリンを弾いていたのを思い出します。何かの映画音楽の録音でした。皆からバブンと呼ばれ、自分でもそうノートに書いてくれたので、それが本名だと思い込んでいました。その頃と、後年有名になってからの容貌体躯が余りに違うので(まあ横に倍以上)、なかなか同一人物認識ができなかった訳です。CDに書いてある経歴を読んでいて、師の名前としてバハドゥル・カーンの名前を見つけ「えっ?!」となりました。しばらくその顔写真の顔幅を、指で無理やり半分くらいに狭くして見て、「な、なんと、あの時のバブンだ!」とやっと気づいたのでした。その時の、別々のものが繋がって一つになり、真の理解が訪れるという、得難い体験というのはそうそうあるものではなく、心からの納得感を与えてくれ、なんとも言えぬ安堵感で心を満たしてくれたのを思い出します。もう彼が有名な奏者となり、こっちもそう認識してから何年も経っていました。その辺のことはまたいつか。
(第5話「バハドゥル・カーン」終わり)2020.6.24
ということで元に戻すと、ローカル放送に「ウェストベンガル放送」というものがありました。
「最近、日本人が私にタブラを習いにきてるんだ」
とでも話したんでしょう。
「えっ、面白そうじゃないか、今度の企画に使おうかなあ」
となったんだと思います。
とプロノッブさんがレッスンに来た私に訊きます。
「えっ」
習い始めて半年、今の世の中には3ヶ月くらいで、えらく上達する日本人もいるようですが、当時の私は、まあ何とかタブラ演奏の仕組みが分ってきて、形式通りに叩けるようになり出したくらいの段階で、とても人前で、しかもいきなりテレビだなんて、できるわけがない、と思ったものでした。
というようなご意見もあるとは思います。しかし、「そのまま打つ」というのが、なかなかこれがどうして。タブラの特徴として、途中で失敗した時、それを打ち直して、続けて進めるというのは、とてつもなく難しいと言えます。インド音楽やられている方はご存知だと思いますが、ターラというものの存在です。リズムの周期のことであり、それから外れないように続けなくてはなりません。ということはすぐ打ち直してはいけないのであり、初めは必ずターラを見失い、演奏ストップとなってしまうからです。
本番まではまだ余裕があったので、そのプロデューサーの家に夕食に呼ばれて、行くことになりました。その日は何らかのプジャ(お祭り)だったので、玄関のドアを開けると、室内は小さなランプやロウソクで、ほのかに明るく、すぐ足下には白い米の粉で、見事なデザインの、細やかな絵が描かれていました。女性がプジャの際描くものだそうで、一家の主婦のセンスの見せ所、と言った所でしょう。コーラムとかランゴーリと呼ばれるもののようです。(インド人、ペンキ塗りは下手でも、こういうことはとても見事。)
「んんんっ、と、とんでもない」
と驚かれてしまったのは確かです。「冗談ですよ、冗談、はは」というような顔をして、内心は「フー危ないとこだった‥‥」と。
最後にお菓子が出ました。それはさすがに買ってきたものでしたが、白鳥の形をそっくりかたどったもので、とても食べるようなものには見えない、真っ白な陶器の置物のようなものでした。しかし、それ以上絶対に食べられない、もっと大きな理由がありました。苦しいほどに満腹だったのです。それでも「食べろ」というのがインド式というもの。何度断ってもダメ、終いには懇願に近く「じゃ、頭だけでも」と。仕方なく、その砂糖菓子、美しい姿の白鳥の頭だけをがぶりとやり、その素晴しいごちそうの一夕は終わりを告げました。
「よいか、お前はあの家でごちそうになった。だから今度はお前が返礼をしなくてはならない。用意するのはチキンのカレーに‥‥」
何だかグリム童話か何ぞの世界のようです。
「さあ、言っておいた通り、夕食だ」
「ああ、ちょっと残りがある」
と応じてくれた小僧さんがいたので、これも今風に言えば「超ラッキー!」と買い求めた次第。いやー、その少年がとても立派に見えました。焼け跡のイエス、「あんた偉い!恩に着るで!」と。
(第6話「テレビ出演1 プロデューサー」終わり)2020.7.4
「ポンリッジ?」
と全く理解できない様子。あれおかしいな、といろいろ当時のことを語って補足すると、やっと、
「ああ、パンディットジーのことか」
と。つまり、パンディットというのは「先生」のことであり、それに「さん」の意味のジーを付けて呼んでいたわけです。ちょっと速く読んでみて下さい、ほら「ポンリッジ」と聴こえるでしょう。しかし、こっちは固有名詞と思い込んでいるので、呼び捨てはいかんと「ポンリッジさん」と言ってたんですが、これって重複ですね。
とプロノッブさん。古都バラナシの人は「本場の人」という意味合いが強く、尊敬の念を込めての呼び方と言えます。カルカッタが音楽的に重要な都市となったのは20世紀に入ってからのことであり、ラクナウやバラナシとは歴史が違います。ただ、イギリス統治が進むにつれ、多くの音楽家がカルカッタに集まったのも事実です。各藩の宮廷の仕事がなくなり、近代都市の富裕層を求めてのことだったようです。
って思いましたね。だって、たった今タブラ伴奏していたのが、まぎれもない私の先生。なんで私のことを装飾する必要があるの?まるで「虚栄心に満ちあふれた人間」のような。でも、まあ、こういうことってどこの国にもあるんだろうな、と渋々納得。と言うか、親切心であり、より見栄えがよくなるように言ってくれたということ、日本でも果物をぴっかぴかにしたり、綺麗な紙で巻いたりして売っている、あれと同じようなもの。きっと、プロノッブさんもその方が良かったんだと思います。「どうだ、ウスタードに習うようなことを自分は教えてるんだ」という自負。
「お前、ゆうべテレビに出て、タブラひいただろう?」
「ああ、そうだ」
すると無言で手を差し出し、握手と相成りました。
反応と呼べるのはこれだけでしたね。
(第7話「テレビ出演2 演奏」終わり)2020.7.4
「メディスンマンに会ってみないか」
と枕元で訊いてきました。
ちょっとでもと、いわゆる「藁にもすがる思い」で「OK」と返事しました。メディスンマンと言えばアメリカインディアンの呪術師が有名ですが、まあ、人類、どこの民族でもあるもの、しかし、奇術化したショーとは違い、「治癒を目的とした呪術」、一体どんなことをするのか。とてもつらい時期でしたが、その辺の好奇心はなくなっていませんでした。
「手を入れろ」
と言います。前屈みになり、両手を揃えて、ぴたっと手の平が洗面器の底に着くように置きます。手首の少し上くらいまでが、水の中に没しました。
すると何やら口の中でごにょごにょと呪文を唱えているのが聴こえます。持って来た小さな布袋の中から、二つのものを取り出しました。一つは3センチくらいの細い小枝です。それを水に浮かべ、次に白いペースト状のものを小さな容器から人差し指で掬い、水に溶かします。少し白っぽく水は濁りました。その時既に彼の手も濡れています。
「こ、これは‥‥」
言葉が出ません。ペンバ氏もじっとすぐ横で見ていましたが、全く同じ。呼び寄せた彼こそが驚いているようでもありました。
「あれは一体‥‥」とお互い同じようなことを言うしかありません。二の句が継げない、とはこのこと。
今度は騙されないようにと、じっと彼のやることを観察しました。しかし、全く彼に落ち度はありません。どこにも怪しい動きは見られません。小枝は径が2、3ミリ、長さ3センチくらいのもの、樹種は分りませんが、特段仕掛けのできるような大きさでもなく、色粉が塗られてもいません。水にプカプカ浮くだけです。溶かすペーストは、多分インドの男達、それも労働者がよくやっている、タバコの一種、噛みタバコの時に使う石灰だと思います。どちらもありふれたものです。そしてもちろん彼の掌もよく見ました。何かが塗られているわけでもなく、仕掛けのある、ポケットのようなものがある訳でも、もちろんありませんでした。
「これで終わった。すっかりよくなるだろう。」
2日に渡る治療だったわけです。しかし、もっと驚いたのはその治療代というものです。目の玉が飛び出るほどのものだったかと言うと、いやそれが全く逆。たったの15ルピーだったように覚えています。彼にとってはすごいんじゃないの?と思われる向きもあるかと思いますが、あの頃コーラ1本が1.5ルピーだったか。安宿1泊分ぐらいなものだったように思います。どちらにしろ、150ルピーはもちろん、500ルピーと言われても「まあ、仕方ないか、こんなことだから」と、払ったであろうような額からは、ひどく桁が少なかったことは確かでした。ペンバ氏も
「なんでこんなに安いの?」
と、狐につままれたような反応。
「あれは一体‥‥」
と半ば呆れるような。この時のペンバ氏にはひとかたならぬ御助けをいただき、感謝の極みだったのですが、この魔術はティベット人の彼にとっても、ましてや日本人の私にとっては尚のこと、何とも言えない不思議感に満ち満ちた経験でした。
(第8話「魔術師」終わり)2020.7.6
「いいか、きっとこうなる」
と、二つのことを予言。
一つはこう。相手奏者が
「もっと後ろに下がって」
という指示を出すはずだ、多分マイクから1メートルくらいは離れるはずだ、と。そしてもう一つは、
「ええっ、うそっ!」
と今の人なら言いたくなるような。(ちょっと話がそれて申し訳ないですが、80年代つながりで言うと、この時代の初頭、81年82年頃の流行語としては「ほとんどビョーキやねー」があり、もうちょっとしてから、驚いた時に、この「ウソっ」という反応をするというのがありました。前者はほどなく滅びたのですが、後者は多分現在でも生き延びてるんじゃないかと思います。ということで、この時点ではまだない表現でありまして、実際に言ったわけではありません。もし「ドント テル ア ライ」とか言ったとすれば、「いや、本当だ、だから今説明してるんだ」とか、より話が長くなるだけだと思います、インドでは。)
「バス、バス」
それくらいでじゅうぶん、と言った感じで後退を止めます。もしこれが「うるさいからもっと下がれ」というような意味で言えば、さすがにサンタ氏でも怒ります。聴衆に対するアピール、「こんだけ偉大な人なんですよ!」を演出してるんだと思います。そうでなかったら、PAなんか必要ないことになってしまいます。あいにくと、その時の奏者が何をひく人だったか記憶がありません。もちろん名前も。顔は覚えているんですが。温厚そうな人でした。
そして演奏もたけなわとなると、ついにもう一つの予言が「的中」する時が来ました。
「うわっ!ほんとだ!」
「シュルルッ、シュルルッ、シュルルッ、‥‥」
指が床に突き刺さるような風景。音もそんな感じ。引き上げるときも同じ音がします。
「大奏者が、デレデレをやる→手は大きく前にせり出し、床に着かんとする→聴衆は大きくどよめく→その時、同時に指先はパウダーの入れ物の中にしっかり入っている→自動的にパウダーが付着する→手を引き上げ繰り返す→付着する→また手を引き上げ繰り返す→付着する」
これって、まるで自動機械、オートメーションロボットという感じじゃないですか。この予言を聞いたときは笑ってしまいました。プロノッブさんもニャッとしていました。
「蒸気機関車を再現する」と。
別にシュッシュッ、ポッポッとかやるわけではありません。右手を前に出し、左から右に移動させ、遠くに去って行く景色、ちょっと間があって、今度は右から左に移動。
「ああ、戻ってくるんだな。」
さあ、それをタブラでやってみせます。
「ダティゴディゴディゲナ、ダティゴディゴディゲナ、‥‥」
初め大きな音で迫ってくる音、それは本当に「しゃかりきになって」走っている蒸気機関車そのものです。やがて、音は少しずつ小さくなり、彼方に走り去って行きます。しかし音はどこまでもクリアーで、一点の曇りもありません。
一瞬、音が止まります。
「ああ、行ってしまった‥‥」
と、どうでしょう、その絶妙な間の後、再び幽かな鉄の車輪が回転し、レールの軋む音が聴こえだします。
すぐそれは、辺りを威圧するかの如くの轟音となって響き渡り、
「も、もどってきた!」
と実感させるのです。しかもですよ、「どっかで方向を変えて」じゃなく、「そのまま後ずさり」をして、後ろ向きに来たことが分るんです。だから、単に「強→弱→強」と弾いたのではなく、打ち方も変えながらやってるわけです。いや、はや、なんともすごい。
「ナナナナナナナナナナ‥‥」
と、凄まじい速さで打ち鳴らすもの。ただ、その時パフォーマンスがつきます。空いている左の指で、鳴らしている人差し指を差した後、そのまま起こして聴衆に
「見ろ、1本指だぞ!」
と、声こそ出しませんが、強くアピールします。
「フフ、何だか子供っぽい」
なんて思ってはいけません。これこそ「インド精神」というものです。「アッピールする心=インド精神」と言ってもいいでしょう。(まあ、もちろんすべてと言ってるわけではありませんが。)
「テテカタゴディゲネダー、テテカタゴディゲネダー、テテカタゴディゲネダー!」
これは本当に最後の部分、実際はとんでもなく長いのをやります。何度かやった後、今度は横を向き、
「息子よ、今度はお前がやれ!」
「わかった、父ちゃん!任せてくれ!」
「デテテテ、タギテテ、クレデテテ、タギテテ、‥‥、クレデッター、クレデーンネタギテテ、デンデンターテテ、ターテテクレデテテ、カタゴディゲネダー、‥‥」
というようなことを繰り広げて行きます。既に書いたように、この二人はベナレススタイルであり、とにかく音は大きく、また、強拍を叩いた後は両手を高く持ち上げます。
この図も想像してもらいたいものです。舞台の下手に2人の大男が、太鼓をドンドコ、バカバカ叩き、時々両手を持ち上げ広げ合っている、それも嬉しそうにお互いを見合い、声こそ上げないが、何とも充実感にあふれている。かたや、舞台中央では、可憐な少女が、なす術もなく立ち尽くしている。
「グワーーン、グオーーン!」
男二人が両手を掲げる、少女は小さくなる。
というご指摘を受けるかも知れません。そんな馬鹿な、‥‥最高の演奏が聴けてるのに、まさかそんなことを、不謹慎だ!
でも、まあ、確かにそんな図に見えなくもありません。あくまで私は部外者ですから、ある面、常に違う方向から見ていたりしたことは、確かです。
ちょっと「極論」に聴こえるかも知れませんが、インドの音楽は「個人がすべて」「個性がすべて」なんだと思います。もちろん、その前にその人の属する「流派」というものがあって、それを無視して語るというのも、つまらないと思います。しかし、その上に立ちながら、それぞれがユニークな演奏を作り出して行くというのが、何とも魅力的な世界だと思いました。
(第9話「タブラ奏者1 サンタ・プラサッド」終わり)2020.7.6
全く違うコンセプトに基づく伴奏、「伴奏の時のタブラというのは駕籠だよ(これはインド独特のもので日本で言えばお神輿のような形状の貴人のための乗り物)。どんな悪路であろうと、主奏者が全く気づかないように支えて、気持ちよくお運び(演奏できるように)するのが我々の務めなんだ。」そういう考えの人であったため、つまりほとんど真逆、凸凹を補うような、一面のお花畑、いや天国を演出、美しい音の連なり、組み合わせ、鳥のさえずりのような「シュリタテトロピクタレトロナンピリピリピリ....」といったような演奏を始めたのです。
すぐにプロノッブさんに笑みが浮かび、顔は輝き、「ああ、この人が私の師で本当によかった....」と思ったそうです。キッシェン氏は多分「タッゲドンカラ、スダダドデナナク、ドギッドッギナ、クテナンナクバデ、ナナーナナーナナ」....あ、いや、これらはタブラのボールとは関係ありません、今思いついた鳥のさえずりの「チュンチュン」とか「ピーンヒョロロロ」といった表現と同じで、感覚的にタブラの音を表現してみただけです。聴いてもいないボールそのものを再現することはできませんので、想像による音の再現です。あ、たとえ聴いたとしても無理か。
そのとき「やがてそういう地位に登るであろう次代の奏者は誰か」ということになり、「それはスワパン チョードリーだろう」ということでした。確かに何十年も経ってみて「あれは正しかった」とも言えますが、しかし実際は多くの大家の活躍や尽力によって、「伝統」は息子たちや多くの新しい弟子たちに受け継がれ、その当時でさえ思いもしなかったタブラの隆盛が沸き起こり、星の数ほどの名人が生まれ、中には「子供名人」まで現れ、それが半端なくすごく、誰がどうとか全く言えないような状態にまでなってしまった、というのが正直なところではないでしょうか。
バラナシ系の人はソロパート以外の決まった伴奏パターン、つまり「テカ」を全く加工せずそのままひき続けます。それは主奏者が混乱しないため、はっきりと周期を指し示すためです。ところがファルカバッド系の人はこの伴奏パターンの中にいろいろ装飾を入れていきます。主奏者の中には嫌う人もいるでしょうが、あまり機械的な音パターンを繰り返しても聴衆が面白くないので、潤いを与えるものとしてあった方が面白いとも言えますし、全体的な雰囲気を高めるのが目的なのだから、とも言えます。バラナシの人は多分ソロの部分に絶対の自信があるため、伴奏の時まで何かしたくない、自分の番が回ってくれば「はい、それなりのものをお見せしますよ」というプライドなのではないかと思ったりもします。その方がよりソロを際立たせることができる、という捉え方、「目に物をお見せするので、雰囲気なんてものはそれによって一気に高まります、大丈夫、受け合います」という。
タブラの伴奏法(サンガット)にはいくつか種類と呼べるような分類があります。サワルジャバブ(ジャワルサバブ)とは問いに対する答え、主奏者のリズムパターンを模倣するような叩き方、サートサンガットとは同時に打つ、主奏者の手の動きや表情を見て「こうひくだろう」と予測して同じリズムを打つ、そしてララントサンガットというのがあります。このララントは戦いです。相手のパターンとは違う、挑戦的なパターンを返すというものです。これらはテンポが速くなってからの両者の受け答えの仕方のことを述べていると思われますが、もっと敷衍した捉え方をすれば、演奏の緊張度を高めるため、初めの方からこのララント精神をもって事にあたる、という方法もなくはないと思います。もっともこれは決して、両者の仲を割くような意味とはもちろん違います。横綱同士の手に汗握る攻防のようなものです。
楽しそうにニッコニコしながら相手を覗き込み、演奏に興じるのがジョグスタイルですが(反対に終始そっぽを向いて演奏するのが弟子のシシルカナスタイル、多分自己に集中するため)、その夜はそうもいかず、少々しゃっちょこばって演奏。プロノッブさんの予想では、タブララハラをするだろう、ジョグ氏はラハラのみをやるんじゃないか、というようなことでしたが、そんなことはなく、歴としたラーガの演奏が行われました。でも、やはりタブラソロに重点が置かれている感触で、その夜のもう一人のタブラ奏者、若き(多分二十歳くらい)サビール カーン氏が相手のときに思い切りエンタテイメントに徹していました。だからキッシェン氏の時はバランスを取って、かなりタブラ重視の演奏だったんではないでしょうか。いやー、本当にすごかった。奇しくもファルカバード派とは親子二代にわたる一騎打ちとなった格好ですが、若武者ではちょっと歯が立たなかったんではないかという印象を持ちました。(サビール氏のその頃の演奏スタイルと、5、6年経ってからのスタイルにはなぜか大きな開きがあり、まだ本当に若かったそのときの演奏で比較するのは申し訳ないので「フェアではない」と申し添えておきます。)
(第10話「タブラ奏者2 キッシェン マハラジ」終わり)2022.9.22
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蚊というのは群れをなすものだというのをご存知ですか。2、30匹で一かたまりを作ってブンブン飛び回ります。ああ、そりゃ蚊柱だよ、と思った方はアウトです。蚊柱はオスの蚊ばかりで、メスが現れるのを待ってるとかです。もちろん家の中には入って来ず、戸外の夕日とかが当たる空間に1mくらいの柱状に群れています。あれはまあ無害です。口の中に入らないよう気をつけるぐらいなもの。しかし、ここで言ってるのは全部人間の血を吸うメスの蚊で、室内のそこここに球状に群れています。ちょっと見たことない人には想像がしにくいというか、恐怖でもあると思いますが、インドでは当たり前です。
床に座ってタブラを練習していても、時々右斜め後方とか左斜め後方を用心深くチラッと見遣ります。するといるんです、そいつらが、ブンブンと。パチンと手で叩き殺します。他はパッと飛び散っていき、一時グループを解消します。でも、またしばらくして反対側を見ると再結成していて、パチンと、そんな練習風景です。タブラ屋さんへ行くと「どうぞ奥へ」と言われてそこに座ると、また蚊がブンブンと。そこでまたパンパンと。それを相手は悪がります。「いやー、貧乏なもので」と。こっちも鉄面皮ではありませんから、悪いなと思いながらも、遠慮は大敵です、どんな目に遭うか分かりません、特に外国人であるわけですから(免疫ができてない)、身を守るためには仕方ないということ。よその家庭に招かれて行っても同じです。店ではないから余計気を使います。「お前んとこは蚊も退治できてないのか」とでも申してるような気になり、こそっとやったりしますが、そんな気遣いに蚊は気がつかないようで、お構いなくどんどんお近づき遊ばします。まあ、そういうことが無くなったということですので、何かから解放されたような気分にしてくれるのは確かです。
話がちょっとそれますが、コルカタの東部は多くの湖、池、干潟というようなものが残っており(何しろコルカタ自体が、とてつもなく大きなガンジス川の河口にある三角州のようなもので、いわば湿地帯とも言えます)、開発が進んで多くの人が住むようになっています。そのあたりに行った時のこと、道を歩いていると向こうの方の道端に、それらの湖から取れた魚を売っている人たちが見えます。旧市街で売っているのは果物や野菜が主なので、これはついぞ見かけない光景、しかし、ん?何かおかしなものも見えます。魚の上に黒い煙のようなものが見えるのです。生魚であり、別に調理をしながら売っているわけではありませんから、煙というのはおかしな話です。でも、遠目なのではっきり分かりません。だんだんと近づくにつれ、ことの真相が見えてきます。その煙は何か蠢くようなもの、何なんだ?だいぶん近づいてやっと分かりました。ハエなんです。大量かつ密集すれば、ぶつからなくするには高速で動き回るほかなく、少し遠くからそれを見ると、まるでモクモクと動く黒い煙のように見えてしまうのでした。つまり日本語の表現では「ハエがたかる」ということなんですが、とてもそんな言葉ではこのリアリティを伝えることはできません。何しろ魚に着地するのではなく、単に周りを「ウワーン」と飛び回っているのです、大量に。
別に汚いことを描写したいわけではなく、生き物の持つ性質を考察してみたところです。つまり大量の生き物が飛び回る時は、ある動きを保って群れをなす、ということです。コウモリなんかも映像で見ると、夕刻洞窟から飛び出した大編隊が、大空を流れの渦のように移動していくのが見られます。海の魚たちでも同じようなことでしょう。それを鯨がチャンスとばかりガバッと頂く、というような。だから目の細かい網を持っていて、それらのハエをガバッと取る、一網打尽にすればいいのに、とかつい思ってしまいますが、誰もインドではそんなことする人はいません。同じように、群れをなす蚊も網でサッとやればいいようにも思えてしまいますが、インドであまりこの虫取り網というのは見かけません。殺生を好まないインドの人たちは、虫も直接的にはあまり殺したりしません。叩き殺すのは最低、といった感覚でしょうか。したがって、殺生の象徴のような捕虫網というのは、持っていれば多分白い目で見られると思います。
また例によって長い前置きですが、要するに蚊の恐怖を語っているわけです。インド コルカタに着いて間も無く、シタール奏者のキリット氏と知り合いになったことはすでに書きました(第5話)。やがて親切にも住む部屋まで紹介して頂いたのでそこへ移り住みました。2階のだだっ広い部屋、普通なら「わー広い、素敵!」なんてことになるんでしょうが、外国人にとっては不要そのもの、なにしろ天井が無闇と高い、全く理解できない高さ、暑さよけかもしれませんが、5mくらいはあったでしょうか、そこに小さな木製のベッドが一つあるきり。なんともガラン堂としか言いようのない部屋でした。とにかく落ち着けない雰囲気、絶対愛着など湧きそうにない感じ、しかし、面倒なのでそこにしばらくいることにしました。
当時すでにもう旅行の本はたくさん発行されていて、インドの対策というのはちゃんと書いてありました。しかし、旅行ではなく音楽を学ぶというのが頭にありますので、インドの歴史や文化、習慣、宗教などの本は読んで行きましたが、生活全般についてが疎かでしたし、愚かでした。確か初めの何日かは1階にもっと小さな部屋があって、そこに寝泊まりしました。隣の部屋のシーク教徒の家族の4歳くらいの小さな男の子が、興味津々でやってきて、「エーキャーヘー(何これ)」と、バッグから出てくる日本の品物を指差してひっきりなしに聞いてくるのですが、切ってはいけないので伸ばしている髪を頭頂でお団子にくくった姿で、とても愛らしい子でした。その子の叔父さんになる25、6歳か、つまり当時の私とほぼ同じくらいの男もやって来て、シークの例に漏れず大変長身でしたが、同じく好奇心が強く(まあ、大体においてインドの人々は好奇心旺盛ですね)、「日本人てどんなん」という感じでやって来て、一緒に中華を食べに行ったりしました。豚は食べない、そして最後に出たお茶を飲んで「味がしない」と驚いていたのが印象に残っています。日本人からしても、そのなんとも薄い味はたまりませんでしたが、それでもまあちょっとはお茶の感じはしていました。インド人にとってこういう甘い辛い苦いというはっきりした味以外は、なかなか受け入れがたいものだと思います。
そんなこんなでそこで4、5日過ごしたあと、上の部屋が空いたからと階上に引越しとなったわけです。しかしまあなんという立地条件でしょう。はずれの田舎でもなく、中心からちょっとずれただけなのですが、特にその周辺にはお店というものが全くありませんでした。みんな買い物とかどうしてたんだろうと後になって思ったりします。レストランもない。いやあるにはあるが、貧しい労働者専用で、とても入っていきなり皆とワイワイやりながら食べる気にはなりません。確か軍のキャンプがあったようで、兵隊さん達が隊列を整えて走って訓練していたりするのが見えました。そもそも人の住んでる家、一般家庭というものが少ない地域だったんでしょう。キリット氏も何を思ってそんなところを紹介したのかよくわかりません。なんでも知り合いの医者の息子の持ち家だとかでした。シークの家族も一時しのぎで借りていただけだったんではないかな、でもまあ、何かその辺を探索するとかの間もなく、その2階に引越したその夜に事は起こってしまいました。
はっきりとは思い出せませんが、1階の時はそんなに蚊はいませんでした。蚊取り線香で十分、といったところ。しかし、2階の高い天井、そこにできた広大な空間、これがクセ者だったのです。家の周りはインド特有の大きな木が生えていて、その辺は緑の多い場所ではありました。聞こえはいいのですが、当然そこには大量の蚊が潜んでいるわけです。そして夜になった。その夜は例の停電に襲われ、天井のファンも時々しか回ってくれません。蚊取り線香をつけますが、その空間ではあまり効果を発揮できません。当地で買った薄い布、腰巻のルンギ用のチェックの柄の布をかぶって寝ようとします。日中の暑さから体は疲れ、すぐに眠気に襲われ深い眠りに落ちます。
ところがそれはすぐに打ち破られました。その広大な空間、壁や天井に張り付いていた蚊が、一斉に襲って来たのです。あいつらはこの時を今か今かと待っていたんでしょう、「ちょっとやそっとの煙が何だというのだ、死ぬ奴は死ね、それを乗り越えて、いくらでも突き破って行くぞ!」といった戦闘モード、下にいたときには想像だにしなかった物凄さです。布をかぶったままだと風がないので息苦しく、暑くてたまりませんから、仕方なく布から顔を出します。するとワッと顔に向かって来ます。これはいかんとまた布をかぶる。薄い布なので皮膚に触れた部分は、その織目の間から刺して来ます。ううっかゆい!と上半身起こして掻き出すと、これこそ敵の思う壺、またぞろワンワンと襲って来ます。
いや、こんなこと書き続けていたら誰も読んではくれなくなります。とにかく一晩中そんなことが続きました。地獄の一夜。どこかに逃げ出そうにも、どこへも行けるような所はありません。朝が来ると朦朧とした中、別に仕事で来たわけでもないのに、インドへ着いた当初は妙に忙しく、1日あちこち誰かに会ったり、楽器店へ行ったり、レッスンを受けに行ったりして夜また帰る、というような日々を過ごしたように思います。1週間くらい経ったときでしょうか、「あれ、風邪かな、熱あるんかな?」と思うと寝込んでしまいました。
ちょうどその日はかのシタール奏者二キル バナジーの演奏会のある日で、大変心待ちにしていた日だったんですが、どうすることもできませんでした。もうこの辺になると記憶も定かではありません。次の日だったか、誰かに連れられて医者にも行きました。自分でもこれはマラリヤだという自覚がありましたから、医者に向かって「キニーネ、キニーネ」と言ったのは覚えています。昔の兵隊さんが飲んで助かったようなことを読んだ記憶があったからでしょう。でも、そのときどんな処方をされたのか、その時でさえわかりませんでした。医者も「ああ、ああ」と適当に相槌を打つような感じで、多分何にも効かない薬を呉れただけだったと思います。このインドのお医者さん達というのもそのうち書きたいと思います。最後門札を見て「なんとか・ダッタ」というのはよく覚えています。タブラ奏者のカナイダッタと同じセカンドネームだったので。
2、3日するとプロノッブさんもやって来ました。キリット氏もシーク氏も。でもだからと言ってどうなるものでもありません。本当に異国で病気というものほど辛いものはありません。1週間高熱と、猛烈な頭痛が続きました。その間でも何か食べなくてはなりません。元気な時はかなり歩いて賑わいのある通りまで出て、レストランに入って食べていましたが、高熱では、というかほとんど歩けないような状態では遠くへは行けません。出てすぐのところにある、ちょっと先にも触れた労働者達の店に入るしかありません。なんだかこういう書き方をすると、労働者を悪く見ているように思われてしまうかもしれませんが、現地で見ればわかると思います、見慣れないうちは近づくのも遠慮したくなるような雰囲気、まず暗い、夜行くとほとんど真っ暗、ロウソクの光で物の存在がわかる程度です。また、小さなテーブルには多くの人が座っているので相席です。
こっちはどんな食べ物があるのかわからないし、今の自分に何がいいのか、何が食べられるのかさえわかりません。でも皆親切に声をかけてくれて、何がいいか訊いて来ます。即答できずにいると、そのうちチラと目に入ったのがオクラでした。これなら食べられそうだと指差すと彼らは一斉に「おー、ビンディ!」と言って、通してくれました。後で知ったのは、これはヒンディー語でベンガル語ではありません。つまりそういう他地域からの出稼ぎの人たちばかりがいる、市内でも辺鄙なところだったということです。小さな皿に五本ぐらい油で炒めたビンディーが出て来ましたが、食欲がありませんからちょっとしか食べずじまい。じゃあこれがいいと言うのでお金お渡すとミルクたっぷりの甘いチャイを持って来てくれました。どうしてインド人はこんな時でも甘いのが好きなんだ、と思うしかありません。その高熱時の日々をどうやって乗り切ったのかほとんど記憶はありません。
ちょっと熱が引いて動けるようになった1週間後、すぐそこを引き払って、しばらく前まで泊まっていた、ティベット人の経営する宿に舞い戻って来ました。そこは賄いがありましたので食べるものには困りませんでしたが、体はまだ良くなってはいません。熱は一応引いてはいましたが、午後になると猛烈な頭痛が、必ず襲って来ます。これがたまりません。でもまあ、生きてここにいることができるだけでも、文句を言う筋合いはありません。憎っくき「蚊の館」へはその後は行くはずもなし。なにか日本で言うところの、高額の敷金のようなものも払ったと思うのですが、面倒くさいのでほっぽり投げ、ずっと帰るまでティベッタンボーディングハウスに泊まることになりました。ハハッ、なら最初からずっとそこにいればよかったじゃない、と言われればそれまでです。一度だけシーク家族の弟に会いに行きましたが、パンジャブの方へ帰ったということで、2度と会うことはありませんでした。
この蚊のお話は実は続きがあります。1年経った日本でのこと、「あれ、風邪かな?」と思う間も無く高熱が出ます。すると、体がガタガタと震え出し、薬を飲もうにも腕が震え、手に持つコップの水が波打ってこぼれそうで、なかなか飲むことができないような状態。「これって一体なんなんだ!?」、それが毎年夏になるとやって来ました。いつどこでこの発作のようなのが始まるかわかりません。かなり経ってから「ああ、これはマラリヤの後遺症だ!」と、やっと昔の兵隊さんの話を思い出して気付いたと言うような次第、ずいぶん血の巡りの悪い気づきようでしたが、要するにその「血」なんです。マラリヤ原虫の卵が残っていて、こう言う高熱を発作的に引き起こすらしく、10年くらい経った時に、ふとそんな話をお医者さんにすると、ちょうど詳しい方で、採血して調べましょうとなり、「5年経って大丈夫だったら、卵は死滅している」とのことで、やはり検査結果は「発見できず」、つまりその時点ではもうシロでした。しかし、ひょっとすると危ないところだったかもしれず、後になって恐ろしさを味わうこととなったのでした。
(第11話「蚊」終わり)2022.10.1
若いベトナム人が一人いて、靴屋さんで働いていました。出稼ぎ?なんて思ってしまいますが違います。彼はボートピープルだったのです。あのベトナム戦争終結の後、多くの国民が国外へ逃れて行き、その手段としてボートに多くの人達がギュウギュウで乗り込み、荒海に漕ぎ出し、運を天に任せました。しかし、彼の場合ちょっとだけ違いました。大きな船の船底に潜り込み、食うや食わずで密航を図ったのです。まあほとんど「食わず」の方だったのしょう、カルカッタに着いた時発見され、意識不明のような状態、なんとか一命を取り留め、なんらかの経路でここにたどり着き、超安い労賃ながらも文句を言わず靴を作り、亡命先を求めて申請中ということ、でも断られたりでかなり難しいとのことことでした。
ある夜のこと、灯りに誘われ窓からブーンと大きな羽音をさせて、虫が1匹飛び込んできました。ビタッと壁に張り付いたその大きな虫、見るとなんと水生昆虫のタガメでした。生息できるような日本的な小川や田んぼなんてないような大都会の真ん中、ひょっとしてBBDバッグにある池にでもいるのか、わざわざそこからから飛んできたのか?明るさがほしいならゴマンとある部屋から漏れ出る光が、いくらでもあると言うのに。本当に「運命の悪戯」というのはこういうことを言うんでしょう。さすがにこの大きさでは、あの大食漢のヤモリの口にも収まらないし硬い、下手に攻撃すれば、反対に体液吸い取られるかもしれない、だから本当は安全だったはずです。でもこの部屋を選んでしまった。
「うわっ、インドにもいるんか!」と私が驚いていると、そのベトナム人、ノンホンと呼ばれていたんですが、「あっ、これは!」と日頃見せない素早い反応を示し、パッと起き出しすぐ捕まえて枕元に置いてあった何かの紙箱の中にさっとしまってしまいました。どこか嬉しそうでした。何日か経って「あれどうした?」と訊くと、「焼いて食べた、美味しかった」とのこと。インドへ来る途中のバンコクの朝市でもカエルの他にタガメもたくさんカゴで売っていたのを見ました。あの辺は皆同じ食文化のよう、タガメもとんだ災難、「インドで人に喰われたの俺が初めて!なんでやねん!?」と言いたいところでしょう。でも大変心優しい人物で、赤い薄紙があった時は器用に造花を作っていました。それは見事なバラでした。
さて本題、ブータン人の若者が一人いました。陽気と言うわけでもないのに何故か多弁なので、ずっと話し相手になっていました。何しろよく喋る。軽躁とでも言いたいくらい。話しのできる相手を見つけて嬉しかったのかもしれません、よくブータン、特にその首都ティンプージョンカーがいかにいいところかを熱く語ってくれました。
彼はどうも、国の施設のようなところで生活する一人であったようでした。多分、親がいないとかでそこで育ったような、つまり国立の養育院の、まだ社会人になっていない若者だったと思います。だからきっと高校生くらいだったかもしれません。本当に彼らの年齢はわかりにくいです。まあ私も相手の年齢とか訊くタイプではないので、これは想像でしかありません。
彼はお腹が悪い、痛いようでした。そこでブータンは、国内の医療では対応できないそういう孤児たちを選んで、カルカッタに送っては治療してもらうようにしていて、その逗留先にここが選ばれているようでした。しかしそれにしても長くいました。顔を合わせてから3ヶ月くらいでしょうか。その前もあったでしょうし。つまりそれだけ、医療というのがインドでもそうスムーズには進んで行かないということです。時々パイサ、日本の一円玉のようなアルミの、少し四角っぽいのを出しては、その角で撫でると言うか引っ掻くと言うか、胃の上あたりの皮膚を刺激していました。そうするときっと痛いのが紛れたんだと思います。
彼にはちょっと悪癖がありました、人をからかうという。多分それは見た目と違って本当に子供だったからだったのでしょうが、ある時、私の機嫌を損ね、あまり話さなくなったりもしました。そんなこんなのあと彼はついに手術を受け、完治しました。多分胃潰瘍だったのではないでしょうか。ちょうど胃の真上あたりにできた15センチくらいの手術痕も見せてくれました。そうか、だから元気が出てますます人をおちょくり出し、言い過ぎたのかもしれない。全快した彼はティンプーへと帰って行きました。帰り際何を思ったか、小さな巻貝のついたキーホルダーを記念に、私の手に握らせました。5階の窓から帰っていく彼の姿が見えました。名前は聞いたのかもしれませんが覚えてはいません。
やがてひと月もすると秋になり、次の人がブータンからやって来ました、今度は二人、若い女性でした。二人とも足が義足でした、どうも定期的に、多分何年かに一度というようにコルカタにやって来ては新しいのに交換するようでした。かなりお金のかかることであり、個人ではなかなかできることではなく、やはり彼女らも、治療が終わり帰って行った若者と同じ養育院から送られて来た人たちでした。
しかし、彼女らはある情報を持って来ました。非常に残念なことなので、実はこのことを書こうか書くまいかだいぶん迷いました。でも、人間社会のあるところ、いくら理想の国ブータンとは言え、いろいろ人の苦しみはあるものだと思います。——あの手術をした若者は死んだと言うのです。縊死したと。大変に驚きました。「エエーッ」もうそれしかありません。一体手術はなんのためだったんだ!?
どうも帰ってからもあの調子で、一人躁のような感じ、そして人をからかってしまう、すると皆から拒否され「あいつはおかしい」とか言われたよう、そしてついに自死の道を選んでしまったということらしい。可哀想に、ブータンに帰らなきゃよかったじゃないか。今思い返しても残念でならない。
女性らの一人は小柄で、色白で、おかっぱ頭にしていて、日本人そっくり、多分15、6歳、そしてブータンの民族衣装を着ていました。ちょうど日本の着物によく似た形、着方をするものです。どうもブータンの女性はこれを普通に着るようでした。まあ、インドの女性もサリーですから同じことなんでしょう。
彼女は膝の少し下から先が両方ともありません。おそらく生まれて間もない、物心つく前、このままでは生きていく手段がない、と言うことで切り落とされたとのこと。そして親は居なくなり、養育院に預けられる、という宿命。これは彼女自身から聞きました、親は全く覚えていない、気がついたときにはもう足はなかったと。インドでもそういう生きる手段としての欠損はよく聞きますが、ブータンにも同じようなことがあるんでしょう。しかしインドと違って国がちゃんと面倒を見てくれるところが違うようです。
インドではその欠損箇所を「これを見ろ」という感じで通行人に見せて同情を誘い、幾らかの金を恵んでもらうという物乞い生活しか方法がありません。しかし、それでも生きていけるだけまだマシだから、そういう方法を選んでいたのでしょうが、現時点のインドはどうなってるのでしょう、ずいぶん発展を遂げたわけですから、かなり改善されてるとは思います。
もう一人は17、8歳か、大柄で血色もよく、違うタイプの服を着ていたように記憶します。どういう発祥のものかはわかりませんが、それもブータンの普通のものだったのでしょう。彼女の方は片方の足先だけが無いようでしたが、生まれつきだったのかもしれません。
この女性は大変陽気で、ブータンの民謡なのかはやり歌なのか、よく歌を歌っていました。一度なんか、たまたま来ていたプロノッブさんのタブラ伴奏で歌ったりしました。「お、ラードラだ(6拍子)」と。他のところでも書きましたが、インドの人はよく歌います。人前でもそんなに気にならないようで、そういう習慣なのですから、緊張したりもしません。まあ多分ブータンとかネパールとかバングラデシュとか、近隣国も同じような感じでしょう。
日本人が特殊なんじゃないかと思ったりしました。一人で歌なんか歌ったりすれば「何ぞいいことでもあったんかいな」と聞かれたりしたものですが、近年では音を出さないようにするのが日本の常識、生活の中でもとにかく音を立てたらもうそれは「犯罪です」というような風潮が、年を追うごとに高まっていく感じがします。
ラジオがあればそこから流れる純インド産の映画音楽とかを、思いっきりボリュームをアップさせて聴いています。誰も文句を言わないし、周りに聞こえるようにサービスしてるわけで、一人で聴くのは勿体無い、悪いということでもっと大きくしようとします。そして確かに皆それを楽しんで聴いています。
日本人は協調性があるとか言いますが、これはある種、日本的個人主義があるため、それがぶつからないための知恵のようなもので、インドの方がかえってこういう点、協調性が高いようにも思います。何しろ本当にみんなが協調して一つのことを楽しめるんだから。今や日本では夏の盆踊りさえも開催が難しいそう、なぜなら音がうるさいと苦情を言う人がいるから。
そんなことインドで言ったりすれば、ひょっとして殺されてしまうかも知れません。みんなものすごいエネルギーでそれこそ必死でお祭りをやりますから。日本人はどこへ向かおうとしてるんでしょうね、音の全くしない、一人一人がカプセルの中で暮らしていくような国を作りたいのかなと思ってしまいます。それが「思いやり」なんでしょうか。駄洒落を一つ言えば、それは「重い槍」と言うもので、かえって社会を分断する目に見えない武器となってしまう気がします。
やがて1ヶ月くらい経ったでしょうか、彼女らは新しい義足を装着し、ちゃんと歩いて帰って行きました。やはり窓から、去っていくのを見届けました。新しい義足はしっかりと機能しているようで、歩きやすそうでした。カルカッタ大学の、そういう研究をされている偉い教授が作ってくれるとかだったように記憶しています。なのでかなりしっかりした、現代的なものでした。その教授も、インド人からの需要はあまりないので、そういう外国からの注文に応えようと、丹精込めて作ったんじゃないでしょうか。ちょっと皮肉っぽく聞こえるかもしれませんが。
ブータンに入ってからはトイトレイン(おもちゃのような汽車)だったかに乗るとか、そんな話をしていました。とても小さな列車だそうです。なんだか夢の国、おとぎの国へ入るような感じもします。しかし、これは蛇足ですが、やはり一時泊まっていたネパール人がこんなことを言っていました。ブータンにはあるお祭りがあると。それは大きな仮面をつける宗教的なもので、決して「見てはいけない」のだそう。外国人はそう言われると反対にどうしても見たくなるもの。でもそれは宗教的な意味のあるものであり、覗くというのは犯罪に近く、聖なるものを汚すことになるのだから、その犯人を殺すまでは行かなくても、かなり暴力的なひどい目に合わすことになるそう。ある外国人女性が好奇心で見に行ったために乱暴され、泣いて訴えたが誰も相手にしてはくれなかったとか。これは批判的な意味で書いたのではなく、やはり歴史ある国、色々な面があって、奥深いものだと思います。
やがて本格的な冬が近づくと、今度はセーター売りがやって来て泊まることになりました。どうもこちらは毎年のことのようでした。彼らは奥の一部屋を借り切り、そこへブータンから運んだセーターを山積みにして行きます。その量の凄まじいこと。大きな風呂敷のようなものにセーターを包んで、背負ってその5階まで運んでくるんですが、仔牛くらいはあろうかという大きなの包みといえども、それを10回やそこら繰り返したって大した量にはなりません。何しろ、包みから出された、一応ビニールに入ったセーターを高い天井の上までびっしりと、そしてそれを自分たちが寝るベッド以外の床いっぱいに積んでいきます。
隣の部屋が突然変わってしまい、それを見て本当に驚きました。一体幾つあるのか?どうぞ掛け算をしてみてください、私にはとてもできそうにありません。よくもまあ運びも運んだり、積みも積んだり、と言ったところでしょうか。まだ11、2歳くらいの息子が一人ついて来ていましたが、その子がそんな仕事を手伝えるわけがなく、本当にお父さん一人で、その力仕事をやっていました。
昔日本でも風呂敷で大きな荷物を運ぶときにやっていた、首の後ろから背中にかけて包みを載せ、その結び目を首の前に持って来て、そこを両の手でむんずとつかんでずり落ちたり、首を絞めたりしないようにして歩いて行く。そう、行商人の姿ですね。確かにそれと同じなんですが、その包みの大きさが違います。セーターだからさして重くはないし堅くもないから、ある程度無理が効いたのでしょうけど、あれを一歩一歩狭い階段を踏みしめて運んだのかと思うと、気の遠くなるような話です。多分何千枚、何千着と運んだことだと思います。それを毎朝幾らかずつ運び出し、何週間かかけて、街角で全部売るわけです。
ブータンは山のほうにあり、牧羊が盛んなため、木綿を「いかに薄く織るか」という発想しか出てこない暑いインドと違って、保温に優れたセーターを作ります。まあインドも、もっと北の方では気候も違うので薄いばかりではありませんが、ブータンとコルカタというのは思いのほか近くにあり、「セーターはブータン」と相場は決まっているようでした。とはいえこんな大量のセーター、果たして売り捌けるのでしょうか?
心配ご無用!インドの人は結構寒がりですので、飛ぶように売れます。こっちがまだ半袖シャツでいても「タンダー(寒いー)!」と言って身をすくめます。中には毛糸の帽子をかぶってマフラーをぐるぐる巻きにしてる人もいたりします。「あはっ」とかちょっと笑いのようなものが込み上げたりしなくも無いですが、日本でも冬なのに白人系の人が半ズボンで平気で歩いたりするのを見たりすると、このことを思い出し「上には上がいるもんだ」と感心したりします。こればっかしは育った環境の違いが大きいようです。
その息子は特に人懐こいわけではなく、いや、反対に妙に都会の人間どもを恐れているような、怯えた目をしていて子供らしくなく、特段親しくはならなかったと言うか、一言も言葉を交わさなかったのですが、いつも私の練習している横を通って出入りしていました。でも、タブラには興味があったのでしょう、脇に置いてあるのをそっと触ったりもしていました。
ある時そのタブラの皮が破れることがありました。これは自然現象です。いいタブラの皮ほど薄く、残念ながら破れやすいという面があります。それを宿のペンバさんやママさんに、食事の時の軽い話の一つとして口にしたことがあります。——大体いつもこの三人で食べていて、他の泊まり客が一体いつどこで何を食べていたのかは全くわかりません。ほとんどヒンドゥー教徒なら絶対口にしないような牛肉とかばかり食べていたからだったと思います。——「タブラの皮が破れちゃった。」と、すると急に顔が険しくなり「それはあのブータンの子が触ったからに他ならない」と言い出し慌てたことがありました。
「ノー、ノー、ネバー、ネバー」と必死に否定してなんとか納得してもらいました。あのいたずら小僧、何しでかすかわからん、という思い込みがあったのでしょう、皆、大体ストレートな物言いをしますので、あらぬ嫌疑をかけられたとすればそれはそれで大変。「あの日本人のお陰で、とんだ罪を着せられてしまった、これから日本人は信用しないからな!」とか思われたら大変です、国際問題にはならないでしょうが、何か古い記憶、ましてや恨みとして残っても良くありません。
やがて彼らも何週間かの後、本当に全て売り切って帰って行きました。しかし、部屋まで運び上げるのも大変ですが、どうやってブータンからこのカルカッタまで運んだのか、貨物列車で来て、そして駅からは荷車でも雇っていたのだろうか。よくインド人は人が乗る人力車で物も運びます。一緒に一人が乗って、結構な量の品物が落ちないように押さえています。でもさすがにそれではできない量、それに小分けするために何処か道端にいったん置いて仕舞えば、途端に現れる盗賊どもに狙われてしまうので、絶対に一度に運んだに違いありません。まあ、そんな疑問を訊く間柄になることもなく、彼らは去って行きました。
若い男女の4、5人のグループが来たこともありました。学生たちの旅行で、これから南インドの方へ行くんだということ。見た目とてもそれまでのブータン人とは思えない、現代的いで立ち、そして顔立ち。民族的にアーリア系があの国にも入ってるのがよくわかりました。そしてジーンズ履いてたりしたので、彼の国でも若者は新しいファッションを楽しんでいるのがわかりました。一人の女の子に「君は本当にブータン人か?」と真顔で訊いたものです。「はいそうでよ」とのはっきりした返事。内心フランス人と違うか、と思ったからでした。
こういうブータン人との出会いがあったため、今でもブータンのことが記事とかになっていると、気になって必ず見てしまいます。彼の国がずっと平和で幸せな国であってほしいと願っています。
(第12話「ブータンの人たち点描」終わり)2022.10.6
大体において、ベンガル人というのは、他の国というか他の州(民族的にもだいぶ違う気がします)の人より小柄です。パンジャブ人というのは大変に背が高く、かっこよくターバン巻いていたりします。そういう人たちはシク教徒です。
日本ではインド人はカレー食べて、皆ターバン巻いてる、と思わされて育ちますが、カレーは確かにそうで毎日食べていますが、ターバンの方は全く違います。まだ宮廷があった頃は、マハラジャとか、貴族とか、そこに働く召使いとか、それぞれの仕方でターバンを巻いている姿で写真に写っていますが、現代においては、路上の力仕事の人がタオルを日除けがわりに頭に巻いたり、または、うんと田舎に行って、伝統社会のしきたりが厳然と残っているところでは巻いていたりするくらいで、一般のヒンドゥー教徒やイスラム教徒が、あの大きく膨らんだターバンを巻いていることはありません。ああ、それと高級ホテルでは、そのマハラジャ感覚を味わってもらう意味で、ボーイさん達がターバン巻いていたりしますね、そんなところで泊まったことはついぞないですが、門前に立っているのを見かけたりします。
しかし、こういう断言というのは、特にインドでは避けた方がいい場合が多いです。それはもちろんインドは広く、知らないことがいっぱいあるからですが、それ以外にも、インド人というのは「伝統社会」を生きているように言われながらも、日本人以上に例外的なことをしてしまう人たちです。だからこのサイトの目的でもある「インド音楽」のことでも「形式的にこうしてはならない」とか言うと、必ずと言っていいほど、「それってこうかい?」みたいな感じで、そのタブーみたいなことをやったり、復活させたりしているのが後から分かったりします。
一人でしか演奏しない(タブラの伴奏は別として)はずの器楽演奏でも、シタールとサロードなんてキー音が違うので別々にやるのは当然ですが、それをお互い半音ずつ譲ったりして同じキーにチューニングして、今は普通に一緒に演奏したりします。タブラはカヤール様式、パカワージはドゥルパッド様式に使うので、ダンス以外では一緒にはしないはずですが、今ではラーガの演奏においても共演することが増えているようです。一時ネジで締めるタブラが登場しましたが、日本でネジ式の小鼓というものが演奏されるとか想像できますか?能舞台で、レンチ持ってキュッキュッとしめてる姿、絶対にあり得ないと思います。
特に最近に至っては「ハチャメチャ」な感じさえします。洋楽のドラムセットだろうが、他国の民族打楽器だろうが、最新の電子打楽器だろうが、もうお構いなしというようなステージもあるようです。それがちょっと「変わったことをねらった誰かの新作」においてとかならあるのでしょうが、演奏するのは古典音楽。ある意味、これは何か「とらわれない心」の表現のような気もします。民主主義の時代、グローバルな時代、古い桎梏からの解放こそが芸術の役目だよというような、あるいは、どんな外国のものだろうが新しく発明されたものであろうが、インドの文化はそれらを拒否するのではなく、己のものとして同化することができる、という高らかな宣言、インドは決して遅れた魔術の国ではない、ということが世界に示したいのかもしれません。
元に戻ります。そのベンガルおじさんも例に漏れず小柄で、細い人でしたが、英語はペラペラで学のあることを伺わせました。インドでは英語ができるイコール学がある、逆にいえば英語ができないイコール無学だ、ということに自動的になります。なんでも昔は銀行員だったとか訊いたような記憶がありますが定かではありません。そんな話はどうでもいいんです、この際。よくラム酒を飲んでると書きましたが、ヒンドゥー教徒としての務めはちゃんと果たしていました。早く起きて、沐浴をして神に祈りを捧げるというのは、毎日欠かさずやっていました。コルカタの冬の季節は結構寒く、決して水を浴びる気にはなれません。「アイ テイク バートゥッ」(私はお風呂に入る)とか言ってもシャワー、それも水を手桶で体にかけるだけのことでしかありません。当然冬の水は冷たく、多分多くの日本人では、とても体にかけようなどという気は起きないでしょう。私も2週間以上体を洗わなかったりしたものでした。しかし、そんな日でもおじさんはちゃんと水をかけていました。そして祈ります。ブルブル震えながら。やはりその辺は習慣というか、ちゃんとした躾があってのことなんでしょう。
ところがちょっと違うところがあります。何しろティベット人の経営しているところ、彼らは当然ラマ教(ティベットの仏教)であって、大きな如来像のようなものが、ガラス戸棚の中に安置されています。インドの人でありながらヒンドゥーの神様ではなく、なんと他宗教の像を拝むわけです。そういう点日本人も似たところがあって、自分の宗教でなくとも人が敬うんだったら自分も拝んでおくか、きっと霊験あらたかなんだろうというような、ちょっとそれに近いものを感じました。いや違うか、もっと真剣です。インド人にとって仏教というのはヒンドゥー教の一部とも言えます。なぜなら、主神ヴィシュヌの変化(へんげ)の一つが仏陀なのですから。
その少し前には、経営者のティベット人のママさんが、黒い鉄でできた、一種ヒシャクのようなもの、その中には台所の赤い熾火が入っており、白檀でしょうか、あるいはまた違うものでしょうか、ある香木を載せます。すると、初め慣れないうちはちょっと嫌な匂いにも感じる白い煙がモクモクと立ち上りますが、仏像の周りをその匂いの煙で清めます。ついでに私にも煙を近づけて、清めてもくれます。その後に続いてベンガルおじさんが仏像を拝むわけです。まあ、私はその横にあるベッドで寝ていて、それらをただ見ているだけです。申し訳ない気に少しなりますが、さりとて、とってつけたようにそこに加わるのも不敬な気がして寝ていることにしました。
さて、そのおじさんと呼ばれる人は一日何をしていたのか。仕事をしていたわけでもなく、その朝のお勤めが終わった後は、ただ一日をなんとなく過ごしていたのでしょう。そう思い込んでいました。言っておきますが、決して実は彼はスパイだったとかに発展するわけではありません。この手の話というのは、平板な日本と違って、色々な民族や周辺国の人たちが、入り乱れていますから、よくそんな噂というようなものはするものです。でもそれは人々のエンターテイメントの一つであり、それによって争いが起こるとかはありません。
ある晩のことでした。遅くまでタブラを練習するのが日課でしたが、その日は少し早く寝ていました。すると隣の大部屋、数人が寝ている部屋から、ママさんの怒鳴り声が聞こえ眼を覚ましました。「な、なんなんだ?」確かに優しいだけではない、気丈な感じの女性でしたが、いくらなんでも夜中に怒鳴るとはただ事ではない!体を起こして隣の部屋の様子を見ました。間に木の扉があるのですが、いつもそれは半開きのような状態でしたので、そこからママさんの立っている背中が見えました。腰に手を当てて見下ろしています。誰を?そうです、ベンガルおじさんです。少しおじさんの反論する声も聞こえましたが、5分くらいで納ったでしょうか、静かになったのでまた横になりました。そうするしかありません。
「えっ、何かやらかしたのか?」心の中でしばらくそう反芻していると、やがてまた深い眠りに落ちていきました。
そうです、実はとんでもないことをやらかしてしまったのでした。この宿には賄いのための料理人として、まだ十代の女の子が雇われ、一緒に寝泊りしていました。その母親もいて、共に料理を作ったり買い物に行ったりしていましたが、すべて雇主のママさんの言う通りに動いていて、ご主人に仕える忠実な使用人でありました。インドではごくありふれた普通のことです。名前はスンダリと言いました。美人という意味ですが、インドではよくある名前のひとつです。背は高くなく少しぽっちゃりとした、目鼻立ちははっきりしていて、今でも思い出そうとすると、はっきりその顔が脳裏に浮かびます。インド的な成人を意味するのでしょう、いつもサリーを着ていて、よく働いていました。朝はいつも私の前の小さなテーブルの上に、紅茶とかまどで少し焦げ目をつけた小さなトーストパンを置いていってくれました。
ベンガルおじさん、その子にプレゼントをしたのです。サリーをです。その晩はよくわからないままだったのですが、翌日だったか、その部屋にいた他の親しい客から事情を詳しく聞きました。私、他人のことを詮索しないと言っていたように思いますが、このことは流石に重大事件であり、すぐ近くで起こった身近な人の不幸、無関心ではおれませんでしたので。どうも「結婚して」と言ったとか。
それを夜になって、いつものようにママさんのベッドの横で寝る前、「こんなことを言われた」とスンダリが報告します。雇主であると同時に保護者をも任じていたママさん、烈火の如く怒って、置いてあったサリーをむんずとひっつかむと部屋からすぐに出て、おじさんの前に立つとビリビリに引き裂き、怒鳴りつけたということのようでした。「今すぐここから出て行きなさい!」多分私が聴いたのはこの辺からでしょう。おじさんもそれに抵抗するわけではなく「今はもう遅いから明日まで待ってくれ」と懇願していたそう。「いいや、ならぬ、今すぐだ!」ということで、仕方なく出て行ったということらしい。こういう点、誠にキッパリとしたところがインドにはあり、ああいう複雑な社会では必ず必要となる意思表示であり、世界へ出る日本人にはぜひ参考にしてもらいたいものだと思います。
まあ、人生いろいろあるものです。
この人がいつからここにいたのかとか全く知りません。しばらくいるうちにそういう気になったのか、その辺もわかりません。しかし幾ら何でも、ちょっと常識外れ、いかにインドとは言え、40歳くらい歳離れてる上に、別に仕事持ってるわけでも財産があるわけでもない。「いやいや、愛は尊い、無敵だ!」とおっしゃる方もあるかとは思いますが、こういう点は強固に伝統的な社会です、インドは。楽器の扱いが少々おかしくなったとしても、目に見えないルールの方はなかなか変わらないと思います。日本は反対に目に見えるものは変わらなくても、内心の自由はどんどん広がって、ほとんど伝統が打ち壊されそうになっているんじゃないかと思うほどです。
要するにこのベンガルおじさん、「自由人」ということなんでしょう。2、3日して窓の下を見ると、数人の仕事を持たない若い人たちに混じって話をしているその姿を見るようになりました。近くのどこか同じような宿に移ったのでしょう。その表情は晴々としていて、みじんも後悔の跡などありません。見上げて私の顔を認めると大きな声で「あの約束のライター」と言ってきます。以前、私が持っていたライターを欲しがったので「使い終わったら」と、まだいた頃に言ったことがあります。ちょうど無くなりかけていたので、「ああ」とテーブルから取ってきて「はい」と窓から落とすと、しっかりと受け取りました。中身だけチャージしてくれる人が通りの片隅にいたりしますので、そこで入れてもらってまた使えるのです。ちょっと白くて小型でこじゃれていて、今でも全く変わらない姿である赤や緑の透明な普通にあるタイプではなかったので、いいなと思ったのでしょう。
その後、おじさん、どうなったか全くわかりません。スンダリはもっと後、5年後くらいに尋ねた時に聞けば、誰かと結婚してもうそこにはいませんでした。ママさんの息子のペンバ氏もその時には、同じティベット人女性と結婚していて、やはりその宿を一緒に経営していました。めでたし、めでたし。とこう書くと、まるであのベンガルおじさんが悪者だったかのように聞こえてしまいそうです。決してそんな人ではなかった、ただ、ちょっと自由な人間だった、あるところのネジが緩んでいただけだった、とだけは申し添えておきます。
(第13話 「ベンガルおじさん」終わり)2022.10.6
インドの公務員は怠け者だとよく言われます。その中で面白いと思った経験を書いてみます。
郵便局でのこと。長い列を作って手紙にスタンプを押してもらうのを待っていました。そんなの普通にポストに投函すればいいじゃないかと思うかもしれませんが、インドではこれは悪い結果をもたらします。スタンプの押されてない切手は、局員が剥がしてそれで利益を得るのです。当然手紙は配達されません。防ぐには目の前で局員によって切手にスタンプが押されるのを見届けるしかありません。見てないとさっと廃棄されます。まずそこで日本人は「ウッソー」となってしまいますが、これはもう常識です。多分今でもそうだと思います。
それで長い時間待っていたのです。さあ、やっと私の番になりました。するとその窓口の局員、トイレか何かでしょうか、私の目の前でさっと席を外し、奥へさっさと入って行きました。私の後ろにも同じようにスタンプを待つ地元の人が20人くらいは待っています。10分待ちました、30分待ちました、いっこうに帰ってきません。おかしいなという思いがだんだん怒りに変わって行きます。
日本ではありえないことです。トイレならちゃんと休憩時間に行っておくべきですし、もし行きたいのであれば誰か同僚、手が空いていれば局長にだって頼んで代わってもらわなくてはなりません。それが社会人の常識です。でもまあ、それは「日本の」です。インドではそんなことは関係ありません。彼が仕事に来てくれたことを感謝すべき立場に我々はいるのです。ちょっと休憩を取ったからと言って怒ってはダメです。その人には適切に休息を取る権利があるのです。
ハハ、それは分かった、でもこの場合は....とんずらだろ!!どこへ行った、早く誰か代わりをしろ!!!本当にこんなこと平気でやります。だから黙っていてはダメです、騒がなくては!まあ、かの地ではそれがすぐ暴動に発展したりするわけです。今の日本で「暴動」なんてなかなか想像しにくいことですが、社会がこういう非常識に溢れている地域では、こんなプロセスでそれは発生します。
仕方なく、その時私は声を上げました。
インドのカウンターというのは妙に高く作られています。それはインド人の背が高いからではありません。客としてきた人間を排除するため、昔の砦の防護壁のようなものです。オスマントルコの大軍を跳ね返したウィーンの城壁のような。そこで、両肘で己が体を持ち上げ顔を出し、腹筋背筋で姿勢を保ちながら「どうなってんだ、何十分待たせるんだ!」と中の方に叫ぶ、足は地上から何十センチも離れています。やがて後ろにいるインド人も「そうだそうだ!」と加勢してくれます。他に局員は近くにたくさんいるのですが、自分の仕事をしている振りをして、決して顔をあげようとはしません。
「私は関係ない」「私の仕事ではない」ということなんでしょう。昔メキシコでオリンピックがあった時、選手が次のレースがいつ開始か分からず戸惑い、たくさんいる係員に「どうなってるの?」と問うと「それは私の仕事ではありません」と連発された、ということがニュースになっていました。中学生の頃でしたが、「ふーん、世界というのはそんなものか」とインプットされたものです。
メキシコとインドとは地理的に大きく離れているとはいえ、その辺の感覚は同じようなものの気がします。というか、日本が少し特殊なのかもしれません。でもそれで黙ったら、もうその日は郵便は出せなくて終わってしまいます。すごすごと帰るしかありません。
心を鬼にして粘り強く喚く、するとついに「どうしたんだ」とちょっと驚いたような顔をして上の者が出てきます。他の局員が「さっきから煩く騒いでかないません」というような説明をする。私も説明したい、「もう係りの男は家に帰ってる頃でしょうよ。家でチャイ飲みながら『あー今日は疲れたよ』とか言ってくつろいでると思いますがね」と。
仕方がないので、その局長が受け取ります。でもすぐにスタンプを押すのではなく、私の送り先をよく見ます。するとこんなクレームをつけてきます。「この手紙を送ることはできない、なぜなら送り先が英語で書いてないからだ」と。今まで何度も出してきて、そんなこと言う局員は誰もいなかった。「To Japan」とそこは英語ではっきり書いています。本当に疲れてきますが、疲れたほうが負けです。「このボケナスが、とにかく日本へ送ればいいんだ!そしたら日本の優秀な局員がその日本語で書かれた住所を読んで、ちゃんと宛先に届けてくれるんじゃい!」とまでは言いませんが、怯むことなく似たようなことを説明します。実務経験を積まずに局長になったのでしょう、そんなことも知らないで堂々と宣う、まるで騒いだことへの懲罰のようにも思える判断に、またまた頭に来るという、ストレス溜まること請け合いです。
訳のわからんことを平気で言うのが世界の常識、だから政治家や外交官も、外国へ行って苦労が絶えないのだろうとは思います。しかし、そこは初めから学習しておいて、やり合うのが世界での外交というもの、こういう、ちょっとしたことで訓練を積んでおく必要もあるでしょう。まあその時も、何とか防御壁を乗り越えることができましたが、たかだか手紙を出すだけと言っても、時には大変エネルギーを使うこともあるわけです。後ろにいたインド人たちも、代わりに日本人が騒いで突破してくれたので大助かり、「やったー」とばかり続いて処理してもらっていました。「ジャパニ、ジャパニ」と彼らは口々に言っていて、いわばインパール作戦のようでもありました。まあ、実際のあれは失敗した作戦だったんですが。
郵便局ではこういうこともありました。もっと大きな中央郵便局のような、建物も新しく近代的です。そこへ行って、日本で頼まれていた記念切手を買い求めたのです。そこも例によって高い高いカウンターです。そしてやっと顔を覗き込むと、はるか下の机に記念切手の収められた台帳を広げて、どれがいいかと聞いてきます。仕方なくまた肘を使ってよじ登るようにして身を乗り出し、見るのですが、訳のわからないことにその机の上はとても暗いのです。色彩保護のために暗くしているのかもしれませんが、椅子に座っている局員、彼にとってはちょうどいい明るさなのでしょう、涼しい顔をしています。
しかし、1mくらい離れているカウンターの上からではよくわかりません。色が多少わかるかなというぐらいなもので、ましてや切手の小さな字なんか読めるはずもないし、それに何故かどれも赤っぽい図柄ばかりで、青とか緑とか色で指示もできません。切手というのは、ご存知のようにそんなに大きいものではないので、当たり前ですが離れて見ることを前提とはしていません。でも、そんなことはどうでもいいようです、その局員自身には見えるのですから。
仕方がないので腕を伸ばし指で「それにしようかな」と示して言おうとしました。するとです、その局員の放った言葉が「ドンタッチ!」です。一瞬でピキンと来てしまいました。河童じゃあるまいし、スルスルと手がどこまでも伸びるとでも思っているのか?「じゃあ、どうやって選べと言うんだ!」「ちゃんと言葉で言え」「そんなん暗くて見えないじゃないか!」「右から何番目とか言えばいい」こんなやりとりです。心ゆくまで選ぶ権利なんて端から認めていません。
「相手の立場に立って仕事をする」という概念がありません。「私は切手を売る仕事をしている。欲しけりゃ言葉で正確にどの切手かを指示されよ。」ということが与えられた任務であり義務のようだ。もっと補足して言えば、「私はあなたの使用人ではない、国の任命を受けて売ってあげているんだ、正しく言わないものに売る理由はないし、見えやすいように近くに運ぶ必要もない、言えないのはきっとお前の目が悪いか頭が足りないからだろう、私はこの机に広げて、決して隠してなんかいない、私の対応はあくまで正しい。」こうして書いていてもあの時の怒りが再燃しそうで、少々筆が荒っぽくなります。
すると私の後ろにたまたまいた一般の人、紳士然とした人が、見るにみかねたのでしょう、こう教えてくれました。「ソリー、ミスター(きみきみ野蛮人君、そう興奮しないでー意訳)、あそこの壁に見本が貼ってあるよ、あれを見て注文すればいいじゃないか」と。見ると3〜4m先の明るい壁に確かに張り出してあります。なぜこの局員はそれを教えようとしないのか?ますます不思議だ。気がつかない私が悪いのか?「なんだ、見本があるじゃないか!」と言って壁まで行き「これだな」と選びました。でも次の瞬間、「あっ」とあることに気づきました。「それで、それをどうやって局員に伝えるんだ?」
日本であればきっと番号が打ってあり「この3番と5番のを10枚ずつお願いします」てなことで、すっとものごとが進んでいくところですが、しかし何も記号はついていません。その壁の順番と台帳の順番は同じになってるというわけでもなさそうです。「このちょっと赤いデザインのをくれ」と言うと、立ち上がってどれを指しているかを見ようともせず「そんな指示ではどれかわからない」と奥深くに座ったまま返事をします。もはやこれは売るためのシステムではありません。仕方なく全てを諦め、適当に言って図柄を確認することもなく買って帰りました。
本当に全く楽しくありません。「楽しいショッピング」というような前提で作られた社会ではありません。金は奪うか奪われるか、品物は取るか取られるか、それを防ぐためには高飛車にものを言い、高飛車に言い返すしかないような。それで回っていくシステムです。全く哀れに思えてきます。日本人でも、若い頃にこういう世界に長く滞在すると、こういう意識が深いところに沈着し、もう元に戻れなくなり、「いやー、どうもどうも」というような日本的な風習を捨て去ってしまうようです。それが社会をギスギスしたものにしてしまう一因のような気はします。
どうしてもっとスピーディーでスムースな暮らしやすいシステムにしないんだ?と心の底から思えてきます。公務員とは国民の下僕であり(まあ私は外国人ですが)、その相手の立場に立ってサービスをする、というのが持つべき最低の意識なのでは。無茶を要求しているのではありません。しかし彼らは言うでしょう「企業は売らんがため客に媚びへつらって手もみして、お追従まで言って売るんだろう、そんな奴隷根性のヤカラとは違う、われわれ公務員はもっと崇高な存在なんだ!」と、確かにそうなのかもしれません。
しかし、そもそもインドでは一般の商店でもお追従など決して言いはしません。ある甘ーいお菓子を売る店、日本風に言えば「生菓子」ですね、これがとてつもなく甘いのですが、そこの店員のなんと偉そうだったことか。全く何度行ってもニコリともしない。ガラスケースに片肘ついて頭を預け、顎を突き出して上から見下ろしている。「これ下さい」とか言っても、まゆひとつ動かそうとせず睨むばかり、少し間を置いて奥の係りの者に、あれとこれだと命令する。何もこちらには言いませんから想像するしかありませんが、どう見ても「お前なんかの買いに来るようなところと違うぞ」と言いたげな態度。
「商品というのは買いたい者が買いに来る、欲しいと言えば規定の値段で売ってやる、それだけのこと。」どうもそういうポリシーのよう。全ての店がというわけではありませんが、こういう「武士の商法」の10倍くらいな感じ、「マハラジャの商法」の売り手は結構います。こいつ買わないなと思うと犬を手で追い払うような仕草をしたりもします。まあ、世界を駆け回ってる人からすれば、「そんなんインドだけじゃない、世界中当たり前のことだ、いちいち書くようなことじゃないね」で終わりかもしれません。
ここでちょっと公務員ではありませんが、銀行員の態度について書きます。銀行員というのはまあエリートたちですから、こんなひどい態度は取りません。でもこんなことがありました。信じがたいようなことです。
日本からお金を送ってもらい、銀行へ受け取りに行きます。確か午前中、10時頃でした。対応してくれた行員、ちょっと間抜けなんじゃないか?全くやったことのない仕事のようで、初めのほうは周りの行員が教えているような感じでしたが、とにかく何も進んで行かないようなのです。ずっと椅子に座って、何ひとつ文句を言わず、表情も変えず待ちました。結果、なんと現金を受け取ったのは午後4時でした。そして、証明書をつけてくれというと、それからまた1時間かかって、札の長い番号を1枚1枚を手書きで写して行き、結局5時に受け取ることに。たぶん彼は朝の時点で、あー、これが今日の私の1日仕事だと決めたんでしょう。それで、なんでもない業務を何度も何度も繰り返し、やっているそぶりを見せながら時間を消費させたのでしょう、何となく表情に現れていました。これは初めてインドに行った時とは違いかなり後の頃の話で、もうその頃はできるだけトラブルを起こさないでいようという思いがあって、黙っていたので余計図に載せてしまったのでしょう。
こういったことは多分他の旅行書とかにも書いてあったりするのでここは40年ほど前のことにまた戻ります。
最後にまた公務員のこと。初めて行った時、最後肝炎になって帰ることになった時のこと、はっきり覚えていませんが長期滞在者は「出国証明書」のようなものが必要でした。そこでそのための役所に朝9時からなので少し早く行って待っていました。9時になりましたが誰も来ません。本当に誰も来ないのです。他に同じものを求める人が幾人か待っていたので、「自分一人の勘違い」ではないとわかるので、焦らずじっと待ちました。するとやっと10時になって職員が三々五々やって来ました。
「やっとだ!」とその人たちに書類を提出して証明印をもらおうと机の前に行きます。すると「ボスがまだだからできない」という返事です。もう少ししたら来るとのこと、どうもこれが当たり前のよう、何の不思議もないという感じです。後10分くらいだろうと、また待ちます。しかし、何とやっと11時になって、のっそりとそのボスは現れました。ちゃんとした国の役所、重要な書類を扱う部署の職員が1時間遅れで来る、ボスに至っては2時間遅れで登庁する。それもどうやら毎日、ごく普通のこととして。いったいそんな国があるというのでしょうか。
これは実はインドの宿痾のようなもの。政府がいくら厳しく「時間厳守」の通達を出しても「いや、交通事情が悪いから、時間通りに行くのは困難だ」というような理由で、のらりくらりとかわしてずっと続いていたようでした。聞いてはいたけどここまでとは、とその時驚きました。少し前までは午後から出勤、時々休むというようなことが全国の役人の常態となっていたようで、インディラ ガンディーが一度下野させられていたのを、あまりにひどくなったので国民の負託を受け再登場し、この点を特に厳しく律するようになって間もない頃でした。だから「マシになった」という状態を見たのです。ボスの態度にも「自分はこんなに頑張ってる」感が滲み出ているのは当然と言えるのです。
今度こそとそのデスクの前に皆並び直しました、それこそ「待ってました!」と。ところがそのボスの放った言葉をいまでもよく覚えています、ガクガクガクッと力が抜けて皆床に崩れ落ちるようなものでした。「アステ、アステ、エーイ、パニー!(ゆっくりゆっくり慌てなさんな、おーい、水だー!)」と下働きのものに命じました。持ってこられた特大のガラスコップに、なみなみと汲まれた水をゴクゴクと旨そうに全て飲み干します、そしてやっと「さあ」と我々の仕事にかかるのでした。それはなんでもない、ちょっとハンコを押しサインを入れるだけのこと、でも、それをやってもらう方は2時間以上、理不尽にそして気を揉んで待たされるという、なんともな大仕事でした。
インドでは「1日に一つのこと」というのが常識というか鉄則です。それ以上のことをやっつけてしまおうとすると、暑さとイライラで体を壊すというような意味です。どこそこへのついでに何かをやって、その帰りにはちょっとこっちに立ち寄って何かもしておく、なんてことは端から考えるな、ということ。焦らず慌てず、図らずもこのボスが放った「アステ アステ(ゆっくり ゆっくり)」というのが、まあちょうどいい現実的な生き方なのかもしれません。
(第14話 「公務員たち」終わり)2022.10.6
まずよくあるのがタクシーに乗った時。料金の揉め事とかではありません。——私に関することは今置いておきます、とにかくインド人同士の言い合いのみをピックアップしたいと思います。——タクシーが街中の細い道に入りました。すると横の道から他のタクシーが現れて、角で先を塞ぎます。どちらも迫ってぶつかりそうになってしまいます。こちらとしては、まっすぐ行こうとしてるところを強引に曲がって入り込もうとする相手が悪いに決まっています。日本でならまず曲がろうとする方が待ちます。それがマナーであり、第一無駄がありません。ちょっと待てばいいんですから。
ところがそこでいさかいが始まります。相手はそっちがよけろと言い張ります。こっちは当然そっちが待てと言い返します。窓から体半分乗り出すようにして、泡を飛ばします。客としては後ろから見ていてなぜそんなことで意地を張ろうとするのか理解に苦しみます。絶対にお互い譲ろうとはせず、しばらく本当に無駄な時間を浪費してしまいます。細い道に入ると必ずと言っていいほどこういう場面に遭遇します。まあお互い譲れない事情があるかもしれません。勢力争いのような。いや、そんな話がしたいわけではありません。心理を探ろうというのです。
こういう場面、より複雑な状況があります。もっと車が渋滞して、自分の乗ったタクシーは何台か後ろの方だった場合です。ああ、あそこで言い合ってるな、と見える位置です。そういう場合どうなると思いますか。口論してる当人に対して「そんなことより渋滞になってるぞ、早くやめて車を動かせ!」と言うのが普通の行動だと思います。しかしです、そうしないのが何とも不思議なインド人です。
何とすぐ前の車の運転手に対して「早く行け!」と怒鳴るのです。つまり関係ない人に怒るわけです。まあ、ある意味、前のお前が動かないから自分は前へ行けないのだ、というのは論理的ではあります。しかしこの状況は誰でもすぐ理解できることであり、そんな見かけのことで他者を非難するのは、どちらかと言えば愚かと言えなくもありません。すると前の運転手は角の争いには触れずに、自分の前の車が動かないからダメだ!と言い返します。このすぐ目の前のものに対して文句を言い、根本原因には触れようとしない、というインド人の習慣が何とも不思議で仕様がありません。
ある時バスに乗りました。その路線は大体満員になってしまうのでほとんど普段は使わないのですが、仕方なく乗ることがありました。すると案の定大変に混んできました。もちろん満席なので通路で立っていたわけですが、それはもう耐えがたい混みようです。そのバスは席が向かい合い式ではなく、古い昔ながらのものでしたので、座席の背もたれの角についている金属製の取手を、それも前後の2席分を右と左の手でしっかりと持って、その圧力に耐えました。
座席にはそんな混雑など全く知らなそうな人たちが悠然と二人ずつ座っていました。そこへ体が入って邪魔しないようにこっちは必死なわけです。でも後ろを容赦なくもっと入ろうとする乗客にずんずん押されます。「ウググッ」てな感じで歯を食いしばって堪えます。彼らは骨も折れよとばかりに押してきます。押せばこの人痛いだろうな、とかはどうも考えないようです。
私の前に座っている客は窓際にサリーの若い女性、通路側にそのガードを任じているような男がおり、つまり彼が私のすぐ目の前10cm程にいたのでした。
やがて、ついに押された拍子に体の一部が、その男にちょっとだけ触れてしまいました。すると、すかさずその男は私に向かって「ドンタッチ!」と怒ってきます。目をひんむいて猛然と、鬼の形相です。その混雑はその男にも当然わかるくらいの大変なものでした。別に新幹線のような広い中で、突然誰かが体を押し付けてきたわけでもありません。こういう場合どう言ったらいいのかすぐにはわかりませんが、「アイムソーリー」とか言う気にだけはなれません。ここまで客を入れる車掌が悪い、あるいはそんな交通事情を放っている行政が悪いとしか言いようがありません。
まあそんなことは百も承知で生活しているわけですから、いちいち目くじら立てていたのでは、社会がギスギスするのは当然です。
「みろ、この混雑を!お前には見えないのか!」とだけ言い返しました。しかし、その男には何か使命感「この女性をお守りするのだ」という強い思い、あるいは、「自分たちの犯された権利は必ず守り抜く」というような信念があったのか、「あなたも人に押されて私に当たったのだな、気の毒に」というような表情を浮かべることは、一切ありませんでした。
多分「どうだ!」とまるで自分の働きぶりをアッピールするためのものであったような気もします。自分は正義の人であり立派にこのレイディをお守りしているのだ!と。まあ、日本的に言えば「無理をしている」ということなんですけど、インドでは必要なんでしょう。正義をアピールするために、無理をして目前の敵に挑む、というのがインドでの争いの根底にある気がします。
こういう「目前の敵に挑む」というインド式と思しき行動原理は、あらゆるところに見てとることができます。
ティベッタンボーディングハウスの5階の窓から外を見ると、古金属集積場が手前に見えますが、その向こうに少し広い道、そして道の向こう側の端に沿ってチャイ屋がありました。自分もそこで飲むことはあるんですが、ある時、窓から見ていると、そこで二人の男が喧嘩、何か言い争いを始めたのがわかりました。50m程しか離れてはいないので手に取るようにわかります。
二人はパッと右手と左手に別れて何処かへ行きました。左に行った男は角を曲がり、やがてすぐに戻ってきました。両手にコーラの空瓶を持っての再登場です。何処かに落ちていたのを拾ってきて、あるいは店先に置いてあるのを失敬してきてそれを武器にしようと、それで相手、年若い若造をぶちのめしてやろうというわけです。本当に打たないとしても怖がらせようということなのかもしれません、戻って来て辺りをキョロキョロ見廻しましたが相手の姿が見当たりません。「弱虫め、逃げやがったな」、とその男は一瞬思ったかも知れません。
するとです、右手に去った若い、少年のような男もビルの隙間から再登場です。な、何と手に黒い鉄棒を持ってそれをブンブン振り回しながら駆けてきます。それも一人ではなく仲間4、5人を引き連れてです。皆それぞれ鉄棒とかの得物を持っています。
これが「インド人は一人に見えて実は一人ではない」と他のところで書きましたが、こういう意味です。必ず仲間がいます。その仲間意識は強く、紐帯は強いようです。何かのグループと言うわけではありません、一族なんです。仕事場の同僚とか言っても、それも親兄弟、いとこはとこであり、皆が互いを支え合って生きています。
あの「OK牧場の決闘」のようなシーンをタダで見せてもらったわけです。これは真昼の決闘——そんな名前のもありますが——次に同じ場所、そして夜遅くに繰り広げられた、もう一つ別のバトルを紹介したいと思います。題名をつけるとすれば「真夜中のレストランボーイ」でしょうか。
場所は全く同じチャイ屋。見物する私の方も同じ窓から。——この窓からは本当にいろんなものを見せてもらったので、テレビや映画以上の値打ちのものでした——時間は夜の10時ごろだったでしょうか、真っ暗でした。外灯はついているので、まだいる人々の姿は見ることができます。自分自身、その日はなぜか宿の晩ご飯を食べそびれ、多分予約しなかったのでしょう、そのチャイ屋のちょっと横にある一度も行ったことのない、でも窓から見えるので前から知っていた飯屋、行ってみると何とも薄暗い、何の愛想もない労働者用のところ、中に何人か客とか店の使用人、まあボーイとかがいましたが、そこで何か食べて帰ってきたばかり、そんな時でした。
店を出る時支払いをしようとすると、まあ「いくら?」と普通聞きますね、すると出口にいる腹の突き出た大将、このレジ前にいて座ってるのが普通オーナーなんですが、その言葉がどうも気に入らないよう、「黙ってりゃ今言う」ということなんでしょうか「ふんっ”いくら”やて」とボソボソ言いながらせせら笑います。これもインドの七不思議の一つなんですが、とにかくどの店も無愛想で、特に「その店の中での階級が客に対してもそのまま持ち込まれる」という、理不尽と言ってもいいような態度があり、だからオーナーというのは客に対しても威張っているわけです。金庫を使用人には決して任せず、何が何でも守り抜きます。ちょっと気分を害しかけ、何か言おうと思いましたが、まあ何も言わずそこを出ました。そういう訳で、帰って窓からもう一度その店を遠くから見て、「いまいましい親父め」と思っていたところでした。出て5分も経っていません。
するとです、たった今自分が出てきた店の中から、男が喚きながら駆け出してきました。本当にゾッとしました。そこにいた時の店内の雰囲気まで分かっていなかったのですが、すでに何か険悪な状態だったのかも知れません。チャイ屋の決闘の比ではない、本当のバトルが始まったのでした。
すぐ仲間が集められたよう。暗いのでよくわかりませんが、守るは店の人間でしょう。でも店の前ではなく、チャイ屋の前あたりに移動して物陰に潜みました。相手は道のこちら側に止めてある大型トラックの陰に隠れ、両者その辺に落ちているものとか置いてあるものを手当たり次第に掴んでは、盛んに投げ合います。外灯に照らされて、その空中の物体が光り、飛んでいくのがわかります。当然落ちると何かが壊れ音がします。シャッターにぶち当たる音とか。「ドガシャン!」というような。40Wの蛍光管が投げられたときは、目立つのでよくわかりました。「パリン!」と落ちて割れました。あとは石か何かでしょう。あるいは鉄屑とか古タイヤとか。もともとそんなに物質に溢れている世界ではないので、すぐに種はつきます。まさか商売道具の皿とか盆とかを投げるわけにもいかないでしょう。でも30分くらいは続いた気がします。幸い、直接的な鉄拳のやりとりや棒での殴り合いとかはありませんでした。
やがて、誰かが通報したのでしょう、警察車両が「ウィンウィン」言わせてやってきました。それも大きな、内部に金網を張り巡らした護送車です。すぐに警官はその周辺にいた者を有無を言わさず片っ端から、後部に観音開きで開いたドアから車内に押し込み、連れて行きました。この時抵抗しては絶対にだめ、それこそどんな目に合うかわかりません、長い警棒でしこたま殴りつけられるのがオチです。それ自体は10分ほどでしたが、しかし、そんなにあっさりとはしていません。逃げた者を捜して各家、その周辺のビルの中にある部屋部屋を一軒ずつ開けさせては調べ、ついにある男を連行して行きました。どうも手回しが良すぎるように、今思い返してみると思います。それこそ、以前からこういう抗争があって、当局も目をつけていたのかも知れません。
最後に連れ出された部屋のあるビルからは、彼の奥さんでしょうか、中年女性がそれこそ大声で喚きながら、一緒に出てきました。「うちの人はそんなことはしていない、そんな人じゃない、私とずっと一緒にいたんだよ!」とか言ってるのでしょうか。連れていかれると今度は周辺の人にそれを同じように訴え続けます。しまいにはよそのドアを開け中の人に向かって訴えています。普段からの知り合いなんでしょう。暗い静かなコルコタの夜に、その悲痛な声が殷々とビルに木霊し響きわたっていました。
これも妻としての一つの役目かも知れません。悲しんでよよと泣き崩れているだけでは、この辺で生きていくことはできない、少なくとも庶民の中では無理なんでしょう。それに後々、あそこの妻は夫が逮捕されて連れていかれたのに、何も抗議しなかった、これはつまり認めたってことじゃないか、となって自分がひどい攻撃、迫害を受けることになってしまいかねません。こういうアピールとか抗議というのは、多分日本以外の国では生活上の最も基本的で欠かせないツールであると同時に、同族として連帯する上での義務でもあるんでしょう。
その後、この顛末がどうなったかは知りません。
もっと恐ろしいものも見ました。同じコルカタでも、少しはずれの、田んぼのある田舎っぽいところに用があっての帰り道でした。向こうの方から低い鈍い、それでいて腹の底に響くような音が聞こえてきました。いわゆる「ドスッ、ガスッ!」というような音、見ると前方に10何人かの男たちが小さな輪を作って、皆地面を見ていました。その視線の先には何かがある。誰でも思うことです。動物でしょうか。稲を刈った後の田んぼの上だったように記憶します。恐る恐るその輪の中を遠くから覗き見ると、彼らの脚の間から一人の男が横たわっているのが見えます。
うっ、こ、これは間違いなくリンチです。人の体内には空洞部があり、今聞こえたのはそこで反響して生まれる独特の音、大地に伝わる音なので、結構遠くまで聞こえます。村社会の掟をこの男は破ったのでしょうか。人間は「社会的動物」であるとはよく言われますが、それは単なる挨拶を交わして一緒に労働に励むとかではなく、もっとこういう「鉄の掟」というようなものに支配されている、ということが根本にあるのでしょう。
よく事情もわからないのに通報など考えも及びません。単なる愚連隊のような連中の暴力ならいざ知らず、村には村の法があり、その刑罰には何らかの理由があり、それによってその世界が成り立っている訳です。外国人が口を挟むようなことではないと思います。近づかないよう、立ち去りました。
インドを旅する日本人の若者の中に、インド人は弱いというような思い込みがあったようで、人の口の端に登る情報では、かなり甘く見るものが多かったように思います。それはまあ、この当時のインド人の体格を見ればわかると思いますが、皆痩せていて確かに強そうではなく、首をヘナヘナ振ってボロを着ている怠け者、に見えたのかも知れません。
しかし、実際はこういうことで、とても弱いなどと呼べるような存在ではありません。すぐに団結してことにあたります。ましてや近年のように栄養良くなって、体格も向上となると、もう日本人に勝ち目はありません。別に戦う準備をしているわけではありませんから、こんな詮索は無用のことですが、兎角若い頃というのは、武蔵と小次郎ではありませんが、どっちが強いか、というような邪念を持ってしまいがちです。
無理やり関連づけるつもりはありませんが、ヒンドゥー教の経典の一つに「バガヴァッドギーター」というのがあり、それは本来は神話の一部でありながら、今のインドの人々の心に深く染み入っている教えの元になっているようなものです。戦場に立つ主人公のアルジュナ王子が、多くの敵を前にして怯み、戦いの虚しさを感じると、今まで御者でしかなかったクリシュナが実は大神ヴィシュヌの化身であり、その本来の姿を現し、「目前の敵と戦え、それが己の義務を果たすことだ!」と鼓舞します。
おそらく、こんなこともインド人の行動原理の一つになっている気がします。
「インド独立の父」といえばガンディーというのが世界的に流布している常識ですが、ことベンガル地方の人は一切それを認めません。ネタジー スバスチャンドラ ボーシュこそがそれであり、彼こそ真の英雄であり、皆が崇拝しています。彼の戦いがあってこそ、インドの独立は達成されたのだ、とコルカタの人は言います。非暴力主義のガンディーを高く評価する風潮は、その功績を認め、その理由によって独立を与えたイギリスこそ平和的なジェントルマンなのだ、というレトリックを持ち込み、自らの過去をうまく消し去るための、イギリス側のトリックであるとみなしています。ネタジーは怯むことなく戦い続けた、これこそ各自の人生において範とし指針とすべき最も大切な態度である、ということをコルカタの人は言うでしょう。
外部から思われているイメージとはかなりかけ離れている面が、インド人の歴史を作り、現在の社会を作り上げている証拠だと言えると思います。つまり、インド人の少々厄介な点、目前の敵と怯むことなく戦おうとする意志は、実は国を解放し、豊かな世界を築こうとする、彼らの根本的な意志を表明するものではないかと思うのです。
(第15話 「喧嘩」終わり)2022.10.14
インドにティベット人はたくさんいると思います。中国の支配から逃れるために、インドへ脱出して来たということです。彼らは皆生まれ持ってのラマ教徒です。ティベットを離れる際、大事な仏像を持ってインドの各地に散っていったのだと思います。
前にも触れたように、私の方はマラリヤから逃れて、ここティベッタンボーディングハウスへ来たわけですが、当初は、彼らが借りていたフロアーの一角——そのフロアーは3家族が借りていたと記憶していますが、その中の一番大きな数部屋を彼らは借りていました——の部屋の一つ、ベッド数が7つか8つの部屋で寝泊りしました。まだ辛い時期だったのでずっとベッドで横になって寝ていました。中央には四角いテーブルが置いてあり、椅子もあり、そこで出してもらったチャイを飲んだりできました。しかし、その机の主な用途はトランプゲーム用であり、毎日そこで興じる人たちがいました。
泊まり客がやるのか、と思われるでしょうが違います。何しろ賭け麻雀のような感じであり、素寒貧の宿泊者が散財できるようなものではありません。まず、ここの女主人、ここではママさんと呼んでいますが、彼女がメインで、そのほか近所の暇か余裕のある主婦のような女性仲間が3人がやってきて、ほぼ毎日、午後になると始まりました。誰もサリーは着用しておらず、人種も定かではありません。
ママさんはティベットの前掛けのようなものがついた民族衣装を常に着込み、他の人は西洋的ないでたち、インドの女性でもキリスト教徒はサリーを着ないそうなので、そういう人だったのかも知れません。また、中国系の人も周辺には多く、木工品などを作る人とか多かったので、そういう家の人もいたかも知れません。全く詮索したことありませんのでよく判らないままでした。
単なる娯楽であり、「ああ、テレビのない時代なら多くの人がこういう事をして時を過ごしていたんだろうな」と思わせるものでした。デパートとかないのでショッピングはしないし、料理の買い出しや他の家事は雇い人の仕事だしとなると、行事とか来客とかの時以外、人は何にもすることがなくなってしまうものです。そのある意味退屈な時を過ごすために、古くから人はいろいろなゲームを考案して楽しみ、日々を過ごしていたのでしょう。つまりそういう古き良き時代のような頃にタイムスリップした感じです。
時々掛け声のようなのあげて興じていましたが、正直、飽きたりしないのかなあ、とは傍観者として思いました。あ、掛け金はそんなに高いものではなかったと思います、あくまで健全なお遊び気晴らしだったので。もし高額なら、皆の目つきも違うでしょうし、楽しむどころかだんだん頰はこけ、時々「いかさまだ!」とか喧嘩も発生したりしたでしょうから。本当に終始和やかな楽しいものでした。
2週間も経った頃でしたでしょうか、ある程度元気になった私は「あなたはこっちの部屋にしなさい」と言われ、「はいそうですか」と隣の部屋に移ることになりました。特別扱いと言ってもいいかも知れません。そこは客室のような感じで、籐製の低いテーブルが一つあったように思います。確か長いソファもあって、来客はそこに座り、時にはそこで寝る人もいたりしました。そして窓際にベッドが一台置いてありそこで寝ることになりました。それまでのはバネが緩んで中程がべこんと窪んでたりしたのですが、藁製のマットが板台の上に敷かれ、しっかりしていて、その方が遥かに寝心地は良かったように記憶しています。
しかし、そこの部屋の特徴はなんと言っても仏像が安置されていたことです。一体が50㎝くらいの坐像で、2体ありました。それが棚の中に置かれ、前はガラス戸、その戸棚自体はかなり大きく、他にも装飾品とか置かれていましたが、仏像は装飾ではなく、篤い信仰の対象として存在し、その部屋に鎮座していたというべきでしょう。その斜め前のようなところにベッドはあり、ありがたいところで寝泊りさせてもらうことになったわけです。
その仏像、当然ヒンドゥー教の神像とは見た目が全く違い、日本の仏像とも違います。1体は光り輝く真鍮製で密教的な感じのもので、厳かな如来像したが、もう一体の方は、はて着衣の観音様のようなものだったか、もうはっきりしませんが、白っぽい印象だけは覚えています。「ベンガルおじさん」のところでも触れたように、毎朝ママさんがやってきて香から発する煙で焚きしめて、部屋全体、特に仏像そのものの荘厳さを保っていました。お経のような呪文のような言葉を唱えながらこれをやるのが、主人としての毎朝の日課ということです。
一方、マンダラの絵図もたくさんあって、天井にもう触れんとするばかりの高さで、ズラーっと掲げられていました。全部で10枚以上あったでしょうか。あまり大きものではなく縦30cm横20cmくらいで、大変きちっと額装され、大切にされているのがよくわかりました。特にラマ教や真言宗のマンダラに強い興味があった訳ではないですが、ある意味マンダラ的なものには関心があったので、「コルカタで見られるとは」と意外に思ったのを覚えています。決してお土産用のような雑なものではなく、入念に描き込まれたものばかりで、ベッドに横になると一望できました。後に日本で開かれたマンダラ展などで見たものは、ある種おどろおどろしていましたが、そこに並んでいたのはそんなことはなく、もっとスッキリしたデザイン構成のものばかりでした。
さてある時、二人のラマ僧がやってきました。ちゃんとお坊さんもインド内に定住していて、ラマ教徒の各家々を回って、そこで必要な行事というか法事というんでしょうか、そういうニーズに答えていました。えんじ色の布を肩から先は出るように体に巻き付けて、その下から黄色い布が少し見えるラマ教独特の僧服を着ていましたが、なぜか黒いソックスに黒い革靴を履いています。どうもこれも決まりのようで、二人ともそうでした。他の折に違う僧も見ましたが、同じように革靴だったと思います。多分ティベット製のはもう手に入らず、本来のを履きつぶした後は、ちょっと感じが似ている西洋式の黒革靴を代用として履いていたのだと思います。広いインド、歩き回って家々を訪ねるには、結構靴もすり減ると思います。
その日は賭け事は無しです。お坊さんたちは食事のもてなしを受けた後、その四角い机の上である事を始めました。それがとても面白いものです。マンダラを作るんです。筆で描くのではありません、平面ではありますがまっ平ではなく、半立体と言うんでしょうか、小麦粉を水で練ってダンゴをまず作り、それを粘土のように扱い、ストゥーパを模したような形のものを作っていきます。
あくまで象徴的なものですから、凝ってリアルな形状というわけではありません。丸くて上の方がとんがった素朴な形のもの、日本で言えば牛若丸が飛び跳ねた五条の橋の欄干の先とか、お墓の卒塔婆の先端部分とか、ちょうどあの形、それを用意された四角い板の上にいくつも並べます。同心円だったか、同心正方形だったか、線が引いてあり、その要所要所にその団子を置いて行くわけです。すると、だんだんとマンダラの形になっていきました。
盂蘭盆のような雰囲気と言えばいいのでしょうか。日本ならキュウリとナスに細棒を四本刺して、馬と牛に見立てて飾るような、もちろん見た目は全く違いますが、素朴な中に何か象徴的な意味を込めたりする感性、日本との共通性をちょっと感じました。その時、私以外に見物人はおらず、皆どこかへ行ったのでしょうか、そんな場にいるものではないという気があったのか、全くわかりませんが、多分、何にも興味が湧かなかったのでしょう。二人も本当に坦々と作っていて、火を燃やすとか、真剣に呪文を唱えながら人骨の法具を打ち鳴らすとか全く無しです。いや、むしろ談笑し、作るのを楽しんでいる風に見えました。
何日かそれはその辺に飾られていたというか、置かれていたように思います。特別な儀式はありません。そういう季節の風物詩のようなものなんでしょう。やがてその団子マンダラは乾燥しヒビが入り、それを茹でて食べておしまいにするとかはなく、多分コロコロンと捨てられたのだと思います。いや、これはちょっと軽く言い過ぎかも。
題名としてラマ教としましたが、あまり大した内容のことは書けませんでした。しかし、そういう環境のところにしばらく住んでいたという思い出が、今でもティベットやラマ教に親近感を持たせてくれていることは確かです。
(第16話 「ラマ教」終わり)2022.10.17
ひとこと付言しておくと、いやそんなことはないと否定するインド人もいるでしょう。つまりそんな繊細さの欠けた人間ばかりではない、ということなんですが、確かにそうなんでしょうが、ここで書くことはあくまでも個人的な体験から得たものであり、だから「印象」ということです。静かな人もいるでしょう、でもそんなことを言えばどこの国でもそうであり、全世界違いなど全くありません。はっきり数値化できるもの以外は全て何の意味もない「個人の思い込み」で終わってしまい、それこそ「洞察」というようなものは無用のものとなってしまいます。そうすることで世界から「偏見」とかいうものを追放できるのかもしれませんが、その分それぞれの国とか人とかが持つ面白さ、興味深さというものは存在しないことになってしまいます。ということを前提としてお読みいただければと思います。
ある布店に入った時。別にドアがある訳ではないので、「入る」というのもおかしな感じですが、結構大きな店で、棚にたくさんの布、もちろんサリーやルンギ(腰巻)にする布、パンジャビやクルタとかの服ももちろんあり、別に棚が大きいからではないですが「大店」と呼んでもいいような店です。内部の様子は全て通りに面して開け放たれているので、外からよく見ることができます。
その店は大きいので、客が上がって着てみたり掛けてみたりできるように、ちょうど日本の昔の呉服店のような履物を脱いで上がる、板の間にカーペットを敷いた座敷になっていました。そこに従業員がたくさん座って控えています。すると、店員の中の一人、番頭さんでしょうか皆よりだいぶん年上で目もギョロリとし、何事もよくわかってる風の人でしたが、周りの若衆にそれこそ物凄い声で怒っています。顔は引きつるように興奮し、年上として黙ってはおれず、身振りをつけて何かきつく説教しているようでした。それがしばらく続くのであっけに取られ、ただ見ているしかありませんでした。やがて5分もすると収まり、座って前に置いてあったチャイをすすり出しました。
そこでやっと店内に入り、かまちに腰掛けると一人がやってきたので「もう大丈夫なのか?」と訊いてみました。すると「何のこと?」と。いやいや今大変な騒ぎだったじゃないというようなことを言うと、「あー、いや全然そんなんじゃない、ただの話をしていただけだ」とのこと。「あれが何でもないの?」とまたあっけに取られてしまうような。そこには体裁を取り繕うような雰囲気は全くなく、ただ本当のことを言ってるだけのようでした。
また別の時のこと、プロノッブさんのお兄さんが夜、家の中、大音量で話す声が突然聞こえてきました。しかし夜と言っても夜中の2時頃だったか、何事だろうと部屋から寝ぼけ顔を覗かせ階段の方を見ると、お兄さんの周りにたくさんの家族、一族が各部屋から出てきて、わんわんと響き渡るその話を聞いています。今、外から帰ってきて大変な目にあったと皆に報告しているんだと思いました。強盗にでも遭ったのだろうか?その時は彼らの家に寝泊りしている時だったので、そういう情景を目撃した訳です。この時もただ事ではないと思い、翌朝プロノッブさんに訊いてみると「いや、何でもない、ただの話さ、兄は声が大きいのだよ」とのこと。いや単に声が大きいだけで、あんな場面が出現するか?と強く思いましたが、まあ、それ以上は訊きませんでした。
車のクラクションも「バホー!、バホー!」と大きく鳴ります。騒音だなんて誰も思いません。大きな音がしなかったら聞こえないし、危ないじゃないかということです。日本車は性能はいいが、クラクションだけはダメだ、音が小さく危険に対する配慮が足りないと言われたそう。自転車のベルも連続的に「ジャリジャリジャリジャリ........」と鳴らし続けて皆に聞こえるようにして走って行きます。別に暴走族ではありません。バスの車掌も人でごった返す停留所の近くに来ると、ドアから半身を乗り出して、車体をバンバン叩きながら「どこそこ行き!」と怒鳴り散らしています。乞食たちの声も大きく、各自創意を凝らした物言いでお金を強く要求します。「ダーダー、チャリースパイサ!(この無限反復を1日)」とか「ハウハウハウハウ........(クレッシェンド)」など。路上の物売りも「エク ポイトリシュ!(これも無限反復を売り切るまで)」と大声でやりますので、人通りのあるところ「喧騒」のみです。今でも耳に焼き付いています。
楽器の音に関してもそうです。できるだけ大きいほうがいい訳です。何しろレンガで重く厚い壁を作り、堅いモルタルで仕上げた部屋というのは、とにかくよく響きます。数人が集まって演奏を始めると、途端にそこはホールのような素晴らしい音響効果が得られる空間とあいなります。また、そういうところで楽器練習をするとこの上なく気持ちよく、途端に自分が「えらく上達したんでは?」という錯覚に陥ります。そして、日本に帰って同じように音を出してみると「えっ、なにこれ?」とそのギャップに愕然となってしまいます、あれは儚き夢だったのかと。練習するならインドに限ります。
そういうところで普段やっている訳ですから、コンサートにおいても、会場全ての人にとって同じような音、音量、音質でなくてはなりません。当然、広いところですから、PAなしではお話になりません。日本人が有難がる「生音信仰」など微塵もありません。はっきり聴こえてナンボの世界、「聞こえないのはないのと同じ」が原則の世界ですからPAが必須です。
「ええっ!?ちょっと待ってくださいよ、では、そういう電気装置のなかった時代は一体どうしていたんですか?マイクやアンプが古くからあるもんじゃなし」という疑問を持たれたかもしれません。ごもっともな感想で、持たれるのも当然のことです。が答えは簡単過ぎます、古典音楽に限って言えば、多くの一般人を相手のコンサートなど、そもそも少し前までインドには存在しなかったのです。日本の歌舞伎とかとは違います。インド古典音楽というものは宮廷の中だけのものであり、大理石で作られた宮殿の中で、広いとは言っても王侯貴族を相手に演奏するためのものなので、ある程度の広さであり、現代のホールほどではありませんし、そこでは堅い石の壁によって反響し、演奏者を取り囲む優雅な貴顕たちを満足させるには十分なものだったです。
インドの古典音楽以外の、一般の人の音楽については、また別のところで書いてみたいと思っています。
さて、そのPAの悲喜劇のお話です。
インドでは「原音再生」というこだわりは捨てること、邪魔です。何より音量を求めます。いやしくも音響に携わる技術者というものは、それも音楽のこととあらば、「原音」こそが命であり、本当は機械を通さない音を聞いて欲しいのだけれど、仕方がないから電気的に拡声するのであり、だからできうる限り機械的な音は抑えて、とにかく原音に忠実に、ということを叩き込まれます。
ここのところかなり微妙な内容なので、誤解を招く恐れがあるかもしれませんが、もう少し詳しく私見を述べます。
インド人にとって「音」というのはかなり抽象的なものではないかという気がします。かのギリシャの哲人プラトンはこのように述べています。我々人間の見るものは天界の影である。天界には理想的な「完全」なものの形、本質があり、この地上にはそこから少し劣ったもの、炎で映し出されるゆらゆら揺れるそれらの「影」しか存在しないと。完全な円とはこの地上にはなく、あるのは鉛筆やインクの幅を持つ線によって描かれた「似たようなもの」でしかないと。
インド人の音に対する感性はこれに近いのではないか、と私は思っています。本当の音は天界にしか存在しないのであり、我々が聴いている音は、その相似音に過ぎないと。「原音」は天界にのみあり、その再現は不可能、むしろ何よりも忌むべきは聴こえないということで、そうでなかったら天を想像すらできないことになってしまう。
主音、トニックを積み上げ、たった一つの音への回帰を繰り返すと同時に、共鳴弦の作用によるえも言われぬきらびやかなレゾナンスの渦巻く音空間を作り出す、それらは明らかに天上の音楽を反映したものであり、その響きがもたらす幻術的効果は他国音楽の追随を許さないものがあります。しかし、もしその部分がはっきりと聴こえないのであれば、いくら主要メロディーとかが聴こえたとしても片手落ち、いや「天上の響き」を体験できないのであれば、その演奏を聴く意味そのものが失われてしまいます。
そしてその「響」とは、インドの部屋で鳴らしたときの響き、つまり部屋自体も楽器の一部であり、楽器単体で鳴らす「原音」とは意味合いも違ってきます。インドのPAを担当する技術者が追い求めるもの、また聴衆から要求される任務というのは、この「部屋でガンガン響く音の再現」ということになってきます。
では、どうすればその再現ができるのでしょうか。その答えもまた至ってシンプル、「ホールでも最大級の音量を響き渡らせれば大丈夫」ということです。だから左右にある巨大なスピーカーからとんでもないボリュームの音が出てきます。あれこれ悩む理由などありません。大きな音が全てを解決します。これこそが科学技術の勝利、科学と芸術とは相反していません。
一方でインドのホールでの音が大きいのは別の理由を言う人もいます。とにかくインド人は黙って人の演奏を聴けません。隣座席の人とのべつ幕なし喋り続ける人が多くいるし、またいびきをかいて寝ている人も必ずいる、それらの「雑音」を消すのに必要な音量が求められているだけのことだと。いやー、音が大きいから人は安心して騒音を立てるのだと私なんか思ってしまいます。それに決して「消える」わけではありません、ちゃんと騒音として聴こえます。後ろの方の客席から聴く天上の響きは、その前にたむろする人々の「ざわめき」というさざなみの音を乗り超えてくるような感じです。慣れないうちはとても不快です。しかし、とにかく長い演奏時間です、家路に着くのは夜明けということも多いです。その長丁場を聴衆も失礼だからと身動ぎもせずにいたのでは、それこそ身が持ちません。
そういう背景を理解してもらったところで、遭遇したホールでの「事件」について触れてみたいと思います。事件というのは大袈裟です。インド人にとっては何でもないことなのですから。しかし不慣れな外国人からすれば、何とも理不尽で、適当な言葉が見つからないくらいの驚きでもあります。
演奏の真っ只中、突然誰かが叫び出すのです。聴衆が舞台の演奏者に向かってです。そんなことありえると思います?あ、いえ決して「いいぞ!」とか「なんとか屋!(成駒屋とかの)」と掛け声をかけているのではありません。時にはそういうこともあるでしょうが、それとは明らかに違うトーン、「怒号」とでも表現するしかないような声の質です。こちらがいい気分に浸ってシートに身を沈めて音楽を聴き入っていると、まるでテロ事件でも起こったかの如くの、喚くような声が会場に響き渡るのです。初めは一人の声、すぐに同調するようなその周辺も巻き込んだような声に変わります。その声の方を見ると何人かの男たちが指をさして何かをアピールしています。まあ、周りの人が静かにするように言うだろうと思っていても、一向にそんな様子は見られません。
「音が小さい、もっと大きくしろ」と怒鳴っているのです。多分周りも「そうだな、もっと大きい方がいいな」と思っているのでしょう。
先ず反応するのは演奏者自身です。その人のタッチが弱いとかの指摘を受けて、じゃあ、と頑張って力を込める、というような文化ではありません。そもそも、音が小さいと指摘し続けているのは演奏者自身の方です。
ちょっと順序が逆になったのかもしれませんが、演奏の始まるステージでの様子の描写をします。日本では何時間も前に舞台のセッティングをしておき、その後しばらく演奏者は控え室にてゆったりとした時間を過ごして本番の声がかかるのを待ちます。ボリュームもこれくらいということで固定をしておき、あとは本番での微調整くらいでしょう。多分恐らく多くの国ではこういう手順で物事が運んでいくのではないでしょうか。しかし、インドではここからが先ず全く違います。そんな前もっての準備なんかしません。何事も直前です。でもそれにはただしかるべき理由、事情というものがあります。
出演者が何人もいるのです。その人たちを1日拘束して寛いでもらえるたくさんの控え室などありません。第一時間やお金の無駄というものです。出演者は自分の始まる少し前に会場に来て、自分の出番で初めてそのステージに上がります。すると楽器の種類も違うしで、その度にマイク調整をするわけです。そこをずっと客は見ていることになります。マイクテストが始まると必ず奏者はもっと「ボリュームを上げろ!」とPAに指示を飛ばします。多くは出演者の若い方、タブラ奏者だったりすることが多いですが、それは一種のリスペクトの表現方法、礼儀のようにも見え「私はこの方の演奏を皆さんに聴いてもらいたいのだ、だからとにかく大きな音を要求する」といったステージマナー、お約束のようにも見えます。
PAの方も当然限界があるのでよくわかっていて、そこはそれ「うんと上げました!」と反応しながらも音が割れたりしない程度にやっているのでしょう。しかし、歌手の中には本番始まるといきなり「これでもか!」とすごい声を張り上げ、スピーカーから「ギャンギャン」とした音を出してしまう人いたりします。これは楽器にはできない芸当です。
時には演奏中でも、当の演奏家自身が「やっぱり小さいわ!」とPAの方、舞台の袖の方へ不満そうに「アップ、アップ」と手でゼスチャーすることもあります。ということは、演奏中に何かそれを遮る行為は、インド人にとって絶対にいけない、それは「ほとんど犯罪だ」というような意識は希薄だということです。
そういう背景があってこの騒動は起きます。ある時はこんな風でした。初めの怒号の後、PAが舞台に出てきてマイクを変えたけど何も変わらない、もうどうしていいかわからず呆然と立ち尽くす、するとです、その時のタブラ奏者はかのクマール ボーシュでした。ちょっと言葉遣いを悪くして書くと「そんならシタールのマイクとわしのタブラのマイクをとっかえたらいいじゃないか、どんなにダメなマイクでもわしにかかりゃあすんげえ音出してみせらあ!」クマール ボーシュさんはジェントルマンであり決してこんな言い方をされるわけではなく、そしてそもそも何か言ったのが聞こえたわけでもありません、しかし、その場の勢いというものを描写するにはこれぐらいでないと表せない気がします。
ちょっとイライラした感じでした。それがPAに対してなのかクレーマーに対してなのかは分かりませんが、マイクがシタールのと交換されるとすぐに彼はnaの音を「カーン!」とものすごい音量で鳴らしてみせ、「どうだ、このマイクでも変わらんだろ!」と凄んでるといういう感じでした。これこそ「サンタプラサッド」篇で書いたような、ベナレス派の「音量命」の現れのような気がしました。また、クレーマーに対し、マイクの問題じゃないということを実証して見せたと言えるかもしれません。
相手のシタールはモニラル ナグさんで、この人は音量派ではなく、その透き通る絹のような美音を聞かせるタイプの人です。そんなことはわかり切ったことなのに、それでも一部の聴衆は我慢できません。それでもクマールさんの迫力に気圧されて、その後は最後まで静かでした。もっとも、音量音質ともマイクを交換したからと言って全く変化はなかったのですが。この件はクマールさんが「男気」を見せたと言うべきことなんでしょうか。
こういうのはある種「直接民主制」のような気もします。気に入らなきゃその都度直接的に文句を言う社会。政治的なことはもちろんですが、個人的なことも含め、その都度対立して解決を図る。何か言えるのは「自由」があるからであり、それで議論をして解決すれば、これはもう立派な先進文化国家です。まあ、それに慣れない人にとっては負担が大きく、心の休まらない国とも言えるかもしれませんが。
コンサートでのハプニングと題を打ちながら、音量にばかり目を向けてきましたが、演奏内容について騒ぐ場合もあります。
かのラヴィシャンカール氏が演奏した時、コルカタの弟子にディーパック チョードリーというシタール奏者がおり、彼も一緒に舞台にあげました。それは彼にとっては大変な晴れ舞台だったことでしょう。インド人はこういう人間的なサービスも良くします。初めに聴衆に彼を私の弟子だと紹介し「時々弾かせるよ」と言ってから演奏は始まりました。ところがその言とは裏腹に一向にディーパックには弾かせません。弾かせる時はタブラがソロをする時の一定の旋律、ガットばかりでした。シャンカール氏はガットを弾くのを嫌いました、そんな誰でもできることなんか私のすることではないという思いだったのでしょうか。その部分を任されたディーパックさんは必死に自分の任務をこなしていました。それが彼の喜びでもあったと思います。「こんなことばっかりさせやがって」などと思うインド人の若手奏者は存在しないと思います。そういう社会です。
そんな中で例の叫び声が始まりました。演奏はストップ、タブラはシャンカールゴーシュ氏だったと記憶していますが、掌をくるっと回す仕草をしながら「どうしたんだ」と言っています。叫んだのはディーパックの知り合いだったのでしょうか「彼にももっと弾かせろ」と言っているのです。しかしそれはありがた迷惑と言うもの、後で大先生から破門だと言われても仕方ありません。多分「アンチ派」ではないかと思います。どんな世界にもいて、著名であればあるほど噛み付いて、その名誉というものを下げたくてうずうずしているような連中です。
結局しばらくのやり取りの後、彼にも弾かすと約束して収まりましたが、決して生き生きとは弾かず、結局2、3回ボソボソとやるだけのことで、遠慮の塊のようなものでした。そりゃそうです、恐れ多いと思っていたのでしょう、神様のような人ですから。
サンタ プラサッド氏の時にも起きました。相手はシタールのアブドゥル カリム ジャッファル カーンという人です。サンタ氏とは一緒にレコーディングしてLPも出してるくらいだから、その時が初めてと言うわけでもなかったのですが、とにかく噛み合ってなかったですね。でもそれはそのシタールの流派のスタイルとも言えなくもありません。今我々が普通聴くスタイルと言うのは、非常に新しいものです。その特徴は一言で言ってタブラの役割を大変に大きく扱っているということでしょう。アラウッディンやアリ アクバルたちが生み出したものです。しかし皆が皆その流れに改宗したわけでもありません。まあ、だんだんとその方が聴衆の受けがいいから、いつの間にか皆そうなって行ったというだけのことです。
彼はサンタさんにソロをさせませんでした。ガットに戻ろうとしないのです。一人遊びのようにムクラの前に面白いパターンをやっては一瞬ガットに戻ります、そこでサンタさんがよーし次は俺の番だと身構えます、しかし、その前にまたアブドゥルさんの変奏が始まってしまい、サンタさんは仕方なしにテカに戻ります。ずっとこの繰り返しです。タブラのソロを期待してる向きには耐えられないストレスです。
やがてこれは無理だ、回してくれないんだと悟ったサンタさん、今度は「同時打ち」を狙います。つまりサートサンガット、シタールが弾く音のパターンを同時に真似てタブラでシンクロさせるのです。しかしこれもうまくいきません、絶対に真似できないようなパターンをやるからです、「どうだ、着いて来れないだろう!」と置き去りにして、本人は喜んでいるのかもしれませんが、聴いてる方は面白くともなんともありません!だんだんと限界の瞬間は近づいてきます。会場全体がそういう雰囲気になってきて、「知らぬは本人ばかりなり」という状態。
そしてついに暴動は始まってしまいました。あ、いやもとい、騒動は始まってしまいました。これだけは私も同意できる抗議でした。多分皆がそう思っていたことでしょう。でもよその国であれば「それが彼の表現方法であり、それに抗議するのはおかしい」ということで、せいぜい拍手が少ないくらいなもの、何しろ別に下手なわけでも、聴くに耐えない代物というわけでもなく、ただ単に自分たちの期待する方向でやってくれないという「不平不満」でしかありません。むしろウスタードの称号を背負うだけあって実力はちゃんと持っています。
例によって怒号のような声が一部から発せられます。驚いたアブドゥルさん、「いやだから古典音楽はこんなふうに弾くものなんだよ」と説明を始めます。この時面白かったのはサンタさんの方。会場を見回して、「頼む、静かにして」という感じではなく一点を見つめています。なんか自分も「そうだそうだ」と言ってるような感じでじっと黙っています、内心思うことがあったと思います。
しかし、そもそもアブドゥルさんも歴史ある音楽家の家系であり、宮廷でのスタイルを受け継いでいるわけです。それを最近、他流が作り出したスタイルになんでそう易々と従わねばならないのか、「この頃の単なる流行に従うほど誇りは落ちていない!」という自負がきっとあったのだと思います。反対に「真のインド音楽の伝統とはこうだ!」とコルカタの人々に見せてやりたかったのだと思います。
大体において、コルカタの人というのは温厚であると同時に「進取の気風」に富んでいます。自分たちは一番先を行ってるよ、という感覚ですね、これが強いと思います。反対にデリーに行ったとき驚いたのは、そこで会った人がコルカタをほとんど敵視していることです、そして「コルカタには何もないよ!」と言い放ちます。
しかし、今のインドを形作る思想や芸術の多くはコルカタから生まれています。何しろかのタゴール一族がいます。インド音楽を改革し世界に広まるきっかけを作ったアラウッディンもコルカタにいました。宗教家のラーマクシュナやヴィヴェーカーナンダもそうです。「大地の歌」の映画監督サタジット レイも。そしてインドをイギリスの植民地という桎梏から解放したスバスチャンドラ ボーシュもコルカタです。
デリーは首都だという思いがありますが、独立前はコルカタが首都でしたし、その前はベンガル太守の国でもあったわけで、コルカタの人からすれば、いかにウスタードであろうとわしらはわしらの基準で判断するからね、ということなんでしょう。だからデリーの人から見ればコルカタは自分たちの意向に従わないエミシのようにも見えるし、深層のところでは逆にコンプレックスと呼べるようなものもあるのだと思います。
少し中断の後再開されましたが、さあ、それから俄然頑張ったのがサンタさんでした。別にそれまでのスタイルを変えようとシタールの方がした訳ではないので、サートサンガットの方で頑張りました。そしてエンディングをやって「はいはい終わり、あー参っちゃったよ、ここの連中には」とアブドゥルさんがシタールを下に置きかけると、サンタさんそれを許しません、なんとタブラを止めないんです!驚いたのはアブドゥルさんです、「ギョッ!」とした顔をして慌ててまたシタールを持ち直すと、仕方なくダーっとまた弾き始めます。これ、受けを狙って書いてるのではなく本当にあったことを描写しているだけです。
このまま終わったのではコルカタの方に申しわけがない、私がここをなんとかしなければ、という思いがサンタさんにはあったのだと思います。必死になってその場を盛り上げようとしていました。また、これで終わったのでは私にとっても名折れだ、という思いもあったのでしょう。10分ほどでしょうかボーナスの演奏が続き、そしてやっとついに終わりを迎えました、アブドゥルさんにとってはなんと長い拷問だったでしょう。するとです、アブドゥルさん素早くシタールを下に置くと聴衆に対して頭を下げるどころか、完全には立ち上がらず、間髪を容れず、中腰のまま、ササササッと袖のほうに走るように入って行きました。こういうのをほうほうの体というのでしょうか。
あまりひどい描写をすると恨まれてしまいますので、これ以上言わないというか、少し弁護すると、現代人は案外許容性が低くなっている気もします。伝統の音楽が聴けるというありがたみ、幸運というものよりも、自分が欲する気持ちの良さを要求して、クリエーターを抑圧してしまう傾向があります。経済的論理が芸術にも入り込み、お金を出してるのはこっちだ、だからこっちの思うようにやればいいんだ、というような。
まあ、「権威に屈しない」というのがコルコタ人気質だとも言えますし、主にそれはコルカタ以外の権威に向けられます。それは一種のナショナリズムに近いものかもしれません。
とにかく、インドでのコンサートでは色々なハプニングがあり、面白いことに事欠きません。また、演奏家の方もそれに対応できるだけの胆力とウィットを持っています。大変長くなったのでここで終わろうかと思っていましたが、このウィットということでもう一つ思い出しました。
バハドゥルカーンの演奏時、1弦が切れてしまいました。シタールと違ってサロードは弦が細い上に、硬いココナツの殻のバチで弾く訳ですからよくあることです。シタールの共鳴胴の表面は木の板ですから強度があり、張られてる弦は太くても大変に強く引っ張られ、高い音を維持します。しかしサロードの表面はヤギの皮ですから、弦はそんなに強く張れません。駒に力が加われば皮は深く沈み込んでしまい、下手すれば破れてしまいます。そこで緩くても高い音を出すためには細い弦を張るしかありません。結局それがまた反対に、長い余韻のある音を生み出す元にもなっているのですが。
バハドゥルカーンは特に叩きつけるように弾くので余計に切れやすい一人でした。必ず毎回のように切りましたが、ある時、最後の方でもう一回切ってしまったのでした。ペグに余分に巻いてある弦をくるくると回して延ばして大急ぎで張り直すのですが、なんと!その時はその余分な弦が残っていませんでした!万事休す、もうどうすることもできません。
対処法1、「ダメです、これで終わりです」と演奏をやめてしまう。
対処法2、2弦に代わりをさせる。
さあ、このときバハドゥルカーンはどうしたでしょうか。
どちらもしませんでした。なんと彼の採った方法は、右手だけで弾いて左手は使わないという方法、つまり弦を抑えることなく開放弦のまま、ジャンジャカジャカジャカとリズムを刻む行動に出ました。何しろ本当に最後の段階だったので、とにかく「ノリ」というものが大切だったのです。
驚いたのは相手のタブラ奏者です。そんな時どんな対応をとったらいいのか、普通に弾けばいいのか?誰でも困ると思います。しかしその時のタブラはこれまた役者でした。なんと!自分も片手だけにしたのです!右手だけでダヤを弾くのです。ええ!?って感じですよね、それがまた見事にサロードとシンクロしてて会場は「ワッ!」と一気に盛り上がりました。
そのタブラ奏者は誰あろう、かのマハプルシュ ミシュラです。「そっちが片手ならこっちも片手だよ」とやった訳です。こういう臨機応変なステージマナーというのは、余裕があればこそできるものだと思います。また、あの人自身の演奏スタイルでもあった訳ですが。
そしてエンディングとなり最後の一拍のサムの時、なんとバハドゥルカーンは右腕を伸ばし、その弾かれていないバヤを自分で「バーン」と打ったのでした。
小さな会場でしたが、皆大喜びでした。
これはハプニングでも面白い例です。そしてインド人の気質が如実に現れている例だとも言えます。インド音楽が即興を基本としているため、こういうハプニングの際には、それこそ即興的な解決法を見い出してしまうことがよくありました。それも、ウィットに富んだ方法で。
(第17話 「コンサートでのハプニング」終わり)2022.10.29
このサイトのタブラの歴史のページでも触れているので(→2.タブラの歴史的変遷 →3.タブラの流派)ここでは私の知ってる範囲のことで、印象に残っている流派のことを書いてみます。
私の習ったファルカバッド・ガラナ(流派)はヴィラーヤットアリカーンという人が初代です。もっとも、とんでもなく古い祖先を元祖とする見解を述べる人もいますが、あまり意味のないことだと思います。人にはどこまで遡っても必ず祖先がいるものであり、おそらくその祖先たちも間違いなく立派な奏者だったと思いますが、タブラではなくパッカワージとか他の楽器の奏者だったのではないかと思います。そのいにしえにはタブラはまだなかったと思われるからです。ここではあくまでもタブラの流派としてお話を進めていきます。上記のページを見てタブラの誕生について知って貰えば分かると思います。また、デリーからラクノウに伝えにきたバクシュー カーンたちにの活動によって、初めて流派というものができたとも言えるからです。
ヴィラーヤット アリ カーンは別名をハジカーンサハブとかハジサハブと言い、その方で呼ばれることも多いようです。彼は師のバクシュー カーンの娘を奥さんにもらいました。多分ちょっと一目惚れで言い寄ったとかではないと思います。この奥さんは面白い人で、父から幼い頃よりタブラのボールを教え込まれていたのでした。つまり実際には弾けないが、秘密の楽譜だけはしっかり頭の中に入っていて、いつでも取り出せたのでした。この人つまり「生きている地図」であり、まるで「秘宝の隠し場所」とやらを子供にだけは教えておいた、バイキングか何かのようなものです。これは強いです、一種の武器、そこまで言わなくても明らかな「隠し資産」、その道の人であれば絶対に欲しいものですから誰も逆らえません。
父はこの能力を娘の嫁入りの「持参金」として与えたわけですが、単に一度になくなるお金と違って、小出しにすればずっと続くものと言えます(まあ、お金もそうなんですが)。その思惑通りハジサハブさんは奥さんには最後まで頭が上がらなかったとか。「ねえ、次のボール教えてくんない?」「そう、じゃあ脚ちょっと揉んで」「はい、はい」「チャイ入れて」「はい、はい」というような。まあ、後の部分は想像ですけどね。これはつまり、ファルカバッド ガラナもデリー ガラナ、ラクノウ ガラナの直接的影響のもとにあるということではないでしょうか。その流れを基幹として、その上に流派独自のものを築いたということ。
まあ大なり小なりそれが人類進化の流れ方というものでしょう。キリンの首や象の鼻が長いのは、いきなりそういう動物が現れたのではなく、その前段階というものがあり、今は滅びたので見ることはできないが、そこまで長くない前段階のものがいたと思われます。まあ、中には突拍子もなく長いのがいて、やはり環境に対応できず仕方なく滅びたものもいたかもしれませんが。
これとよく似た話は現代にもあります。かのラヴィ シャンカール氏、師のアラウッディンの娘アンナプルナ デーヴィーと結婚しました。師にとってこれは早すぎる結婚でした。もっと教えることがあったからです。そして婿は家を出て独立すると主張して譲らない。そこで父は婿に言いました「後はアンナプルナに習え」と。これは屈辱にも聞こえます、「お前の妻となる我が娘は全てを知っている、お前は未熟だから彼女に習うしかないのだ。」と言ってるわけです。師の方もそうあからさまに言うのは心苦しかったのかもしれませんが、そこが芸の道の厳しさ、言わなくてはなりません。よくぞ言ったと私は思います。しかし、その婿というのはーーひょっとすると現時点においてさえもーー最もプライドの高い男だったのかもしれません。
そもそもインド人の考えでは、夫というのは妻にとって「神」と同じ存在なのです。その上、彼の兄は世界で活躍するダンサー、自身もすでにのその楽団では人気奏者であり、ここへ来て数年で師から学んだことはたちどころに自分のものとできた。これは明らかにエベレストよりも高く、海よりも深い自信をもたらすもので、そしておまけに教育は小さな時から西洋仕込みなので、「結婚とは独立」という概念をみっちり仕込まれています。それにもっと悪いことに、これが大きいと思うんですが、ハジサハブの奥さんと違って、アンナプルナは実際ものすごくうまくシタールが弾けたのでした。
それは分かっている、一緒に練習してきたのだから。その中で愛が生まれ結婚しようと決意した。しかし、師の余計な一言.....。結局、この結婚はあまり長く続かず、破局という不幸な結果を招いたようです。何しろインドで離縁された女性の地位は大変低いものになり、再婚という道はなかなかなかった頃です。もっとも、多くの音楽探求者が彼女を訪れ、彼女からインド音楽の真髄を学び、その後の飛躍に繋げていったわけですから、彼女の名誉までが貶められたという意味ではありません。彼のバンスリー奏者のハリプラサッドチョウロシアもその一人であったと付言しておきます。
流派を作るということはそれまでと違うものを作り出すことです。そこには必ず秘密というものが生まれます。しかし、現代ほどこの秘密と言うものの価値が低くなった時代はないのではないでしょうか。秘密は不公平、という考えです。何かを隠し持っている、と聞けばあたかも犯罪のように感じる空気が満ちてきたように思います。全てのことは公開されるべきだ、秘密を明かさない者は利己的な欲望の心を持っている、だから公に資する気のない卑怯な人間であり、つまり全く時代遅れの嫌なやつということでしょうか。いやもっと言えばこの民主主義の時代に逆行する不埒な人間というレッテルを貼られてしまいます。
「情報公開」ということが声高に叫ばれだしてかなり経つように思います。しかし、これは何か混同した議論のように思います。何しろこの手の誘導に引っかかって、秘密を伝えたがために多くの損失を被った日本の企業は数知れません。公開されるべき情報というのはあくまでも公的なものであって、自分が知り得た新情報は、己一人のためにいかに隠し持とうとも、それによってどれだけ一人富もうとも、たとえ誰に伝えなかったとしても、少しも恥じることはないはずです。かの「モンテクリストフ伯」のエドモンダンティスの、悪だくみによる苦境の結果の幸運で得た秘密も、決して誰かに伝えなくてはならないものではないものであり、たとえ独り占めにしようと「ああ、幸運を得たんだな」というだけのものです。
そもそも、個人の持つ技術というものに対しておかしな誤解があるように思います。人は誰でも己の才覚で生きて行かなくてはなりません。それがこの世に生まれた者の使命です。そこには必ず競争が生まれ、結果として不平等というものが生まれることになります。それを認めないのが共産主義国家というものでしょう。そこでは、すべての人間の知識や技術は国家の所有物としての支配を受け、その意向に沿うものを作り出す義務を負うことになります。しかし自由社会にあっては、追求の方向は自由であっても、生活の保障はありません。そういうことで、技術の伝承者もこの生きる上での法則から逃れる術はありません。
隠し持っている技術を小出しにすることでお金を得る、一体このことに卑しい欲望が隠されているとでも言うのでしょうか。お金は演奏の対価として他で受け取っているのだから、教えるのは只でいいではないか、二重取りのようなことはいけない、というような考えもあるかもしれません。しかし、よほど恵まれた環境にいる奏者でない限り、いかにインドといえども演奏だけで家族を養っていくことはできません。マハラジャの庇護のもとに宮殿のようなところにいる「帝室技芸員」というような人とかは別だったのかもしれません。
確かに、現在でも中にはお金を受け取らずに教える人もいるようです。しかしそれはよほどの人です。本来の伝統的な考えでは、弟子は師匠に対し、自分のできる範囲でお礼をする、もし大金持ちであればヘリコプターでも送るそうだし、できない人は大根とかしか持っていけないけどそれもよし、ということのようです。だからどこかで得ているのです。そして、批判する人も果たしてそういう生き方ができているのでしょうか。
会社に勤めるというのはお金をもらう前提での労働です。そこにはその人なりの技術というものがあるはずです。ほとんどないような職種であろうと、時間内はそこにいて、なんらかの行為をして、個人の欲望を抑えて従事しています。たとえ公務員であっても同じことです。ずっと現金のやり取りのない職場にいると、自分は俗世にまみれない清らかな仕事をしているような錯覚に陥ることもあるでしょうが、よく考えれば、人皆同じことをして生きているわけです。本人はやっていなくても会社がやっているわけです。公務員は国民から搾り取った税金で生きているわけです。
それでも、いや音楽家は聖なる仕事であり、直接お金に関わるのは良くないとまで思っている人もいるかもしれません。まるで聖職のようです。(まあ、宗教もお金で成り立っている、運営していけるわけですけれども。)特にインドの伝統はそうだ、と思われている方もいるかもしれませんが、多分それは思い込みというものだと思います。よく考えれば自ずと分かること、それでもと思えば実際に自分で実践するしかないでしょうが、その答え、その結果が今あるシステムなのですから、初めから結論は出ています。
人の陥る誤解のよくあるパターンは、自分の心の中に大きな理想を思い描き、その理想を求めるあまり、他に対してもそれを要求する、あるいは実際に見てしまう。幸運にもその理想を体現すると思える人に出会うかもしれません。しかし、やがてそうではないことを残念ながら知ると大いに失望し、その人を根本から否定し、非難する。その非難を受ける方こそいい迷惑です。なぜなら、すべてはその理想を抱いたご本人の「妄想」にすぎないからです。現代は「あの人には失望したよ」このパターンが多すぎる気がします。まあ、本人がその理想だと言ってる場合は騙しであり、これには当てはまらないでしょうが、「偶像」と呼ばれるようになった途端、その人はそれを裏切らない生き方をしなくてはならなくなる、あるいはそうであるように見せかけるだけの情報操作をする必要が出てきます。
しかし、大きな目で見たとき、余りに知識、技術を秘匿した場合、社会全体が発展しません。人は社会を形作って初めて維持できる生き物です。その維持に必要なものが文化というものです。その中で特に技術的なことは、いつ本人の死によって途絶えてしまうか分かりません。そこで、「一子相伝」という概念が生まれます。我が子にだけそれを伝える、という法則です。いなかったら近親者から養子を迎える。長い歴史の中で、それでも相次ぐ死とかによって永遠に失われてしまったものもあるかも知れません。すると「分家」という方法、または特に優れた弟子の中から選んで伝え、一流を立てさせる。
こうしてみてくると、「流派」などというと他を排し、己だけの存続のためのシステムに思えてしまうものでも、決して己のためではなく、なんとかその伝統=技術を残したいがために取る、一つの最も有効な手段ということができると思います。道に黄金が敷き詰めてあったり空から小判が降ってきたりすれば、それはもう石ころと同じ価値しかありません。どんな貴重なものでも、もし誰でもが知ってしまえば、その魅力は薄れ、誰も見向きもしなくなるでしょう。
かつて「火」というのは人類を他の動物の攻撃から守る武器であり、煮炊きによる食糧の拡大は繁栄の源であり、また寒さから身を守る唯一の方法でもありました。しかし現在、「火」はイコール無前提の存在となっており、ほとんど労せずして手に入れることができます。その結果、「火」への感謝は失われ、その危険性のみが強調されることとなっています。プロメテウスがもたらした人類共通の財産である「火」が辿った運命と同じように、有名無名の人が残した「技術」というものも、もし、当たり前にその辺に転がっているのなら、正しい理解というものから離れ、何か別のものに変質してしまう可能性は大いにあります。
使った道具をもとにしまわず、その辺にほっぽり出していたのでは、必ず最後壊れるか、人に傷をつけてしまうかないでしょう。伝統的な技術というものもこれと同じように、教われば必ず、人目に触れないよう引き出しにしまっておく、というような習慣は必要です。本来あるべき輝きや純粋さを保つため、全くつまらないものに変化してしまうことを防ぐためです。もちろん発展としての変化はあるわけで、たとえどんな伝統であろうと、そこには後継者の「工夫」というものがあり、それを推奨するのが「師」と呼ばれるような人のすべきことでもあります。しかし、それは本質をよく理解した者のみに許される特権のようなものでしょう。
幸いなことに、日本人はこのような例をたくさん知ることができます。インドから少し離れることをお許しいただくとして、日本の剣術の歴史を見てみればすぐにわかることです。剣の道を極めた人である「剣聖」と呼ばれる人は二人います。一人はかの塚原卜伝、もう一人が上泉伊勢守、この伊勢守は少々伝説じみては来ますが、愛洲移香斎という人に「陰流」を習い、そこに己の新工夫を加えて「新陰流」を創立します。彼は関東の人でしたが、のちに高弟の疋田文五郎や神護伊豆を従え西に登り弟子を募ります。その中の最も優れた人が柳生石舟斎であり、彼に目録を伝授し、「新陰流」を譲ります。それが一般に言われる「柳生新陰流」です。
また、疋田文五郎は「疋田新陰流」、神護伊豆は「神護新陰流」、丸目蔵人は「タイ捨流」を創立していますが、伊勢守はそれぞれに「一門を立てよ」と言っていますので、その結果としてのことです。つまり決して「皆勝手にせよ」と言ってるのではなく、それだけの実力があると認めた者に言ってるわけです。疋田などは、上方では最強と謳われていた石舟斎が彼らを訪ねた時、伊勢守の命で立ち合い、「それはよくない」と構えを指摘し、次々一本取って行ったと伝えられる人で、達人と言ってもいいわけで、この伝承だけでもいかに彼が優れていたか分かろうというものです。
全くの別流として、大島から伊豆に流れ着いた史上最強の伊藤一刀斎は富田勢源に学び「一刀流」を創始し、小野次郎右衛門忠明にそれを伝授します。彼は二人の息子にそれぞれ「小野派一刀流」と「伊藤派一刀流」を伝えたと言われています。その後江戸期を通じてそれらの流派から多くの分派が生まれ、幕末知られる「北辰一刀流」、また他流から「馬庭念流」とかが知られることになるわけです。伝統の継承というものが、決して硬直した原理主義的伝達を望むものではないということがお分かりいただけたと思います。
日本の剣術について少し書きましたが、当時は特殊な時代というか、剣を仕事とする時代でありましたから、多くの人が取り組み、このように多くの流派が結果的に生み出されることになったわけです。中にには己の名誉欲から名付けたような流派もあったかも知れませんが、多くはその道を極め、そこで師より許しを得て工夫を加えて一流を起こすということで、伝統を繋いで行ったことと思われます。そこにはもちろん「秘密」というものがあり、最終的にそれを伝授してもらい会得するということで成り立つものです。そのためには長い修行というものがあり、その中で心得の悪いものは除かれ、真に剣の道を極めようとするものが篩にかけられ、残っていくという、これはこれで大変合理的なプロセスを経て選ばれ伝えられていくものなのです。
話を元に戻します、というかやっと本題です。ファルカバッドの今の継承者はサビール カーンですが、先代は天才奏者ケラマトゥッラ カーンです。そのまた前はマシート カーンです。この人も大奏者であり、多くの弟子がいました。その中に一際輝くのがガン プラカシュ ゴーシュという人でした。そんなに前の人ではありません。私が90年代インドにいるとき「彼が死んだ」という情報がもたらされ、プロノッブさんが大変驚いていたのを覚えています。彼は「奏者」としてはそんなにすごくはなかったと言われたりします。しかし多くの尊敬を受けています。
これをもし西洋音楽で例えるなら、奏者と作曲家あるいは教育者というものを思い浮かべれば良いと思います。かつての大作曲家と言われる人たちは皆それ以前に大演奏家でありました。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、リスト、ところがだんだんと分業が始まった。これは私見ですが、そういう大作曲家が膨大な量の曲を残したがために、それを練習して覚えるだけでほとんどの時間を使い、とても「演奏活動をしながら作曲も」などと悠長なことが言ってはいられなくなった、というのが実のところではないでしょうか。時が経てば経つほど曲目は増えていくわけですから、どこかの時点で、人の能力のコップが一杯になってしまった、そこでそこから演奏家と作曲家の分離が始まったということでしょう。古くはそれにプラスして教育もするわけですから、それはもう大変忙しい人生だったと思います。
インド音楽というのは即興を主体とするわけですから、特に作曲家と呼ばれるような人はいないようです。もちろんインドの音楽にもいろいろなジャンルがあり、映画音楽や歌曲などは前もって作る必要があり、当然その作曲家はいます。しかし、こと古典音楽の世界は、伝統的な旋律を使って自己の即興を織りなしていくわけですから、私は作曲家ですと自称する人は少ないと思います。その辺の説明が難しいところでもあるんですが、いくら古典でも弟子を教えるということにおいては、作曲の能力が必要となってきます。そうしないと適切なプログラムを与えることができなくなります。
また新しい指の組み合わせを思いつくというのも作曲と言えなくもありません。タブラにおいては、それは単なる「フィンガリング」の問題というわけではなく、全く新しい響き、リズム、音調、雰囲気となって現れ出てきますので、まさに作曲と呼んでもおかしくないものです。ある意味、タブラ奏者は新しい指遣いの開拓者でもあります。また、タブラというのは即興の面が強調されてしまい、ある意味「適当」に叩いていると思われがちですが、この場合の「適当」というのは否定的な意味ではありません。次々とリズムや響きを紡ぎ出していくという、素晴らしい即興システムのことなのですが、それとは別に、実は大変多くの作曲された作品を抱えています。古くからあるものでもあり、新しく作り出されてもいます。北インドの古典音楽というのは、即興のためのシステムを発明し、それによって表現できる可能性を追求できるように続いてきた音楽体系と言えるわけですが、また同時に作曲も行われる、他の国と同じ面もあるということです。ただ、分業されてはおらず、奏者がすなわち作曲家でもあります。くどいようですが、「即興も作曲のうち」という理屈ではなく、純然たる作曲行為があるということです。
さて、そのガンプカシュゴーシュですが、師のマシートカーンはやがて困ることになりました。彼に流派の真髄を伝えるべきなのか?「一子相伝」で伝えるべきではないのか?ちゃんと自分にはケラマトゥッラカーンという天才奏者の息子がいる。だから別に伝承という義務は果たしているのだから、新たに、それも他人に教える必要はないのではないか?あー、でも彼は素晴らしい才能を持っている、もし彼に伝えたとしたら、後世すごい発展を見ることになるかも知れない。そこで師は悩んだ末こう言います「よいか、お前にファルカバード派の真髄を伝えよう、しかし、決して我が息子ケラマトゥッラの前でひいてはならん、いいな。」そうです、もしそれをひいてしまえば、「なんてこった、流派を分裂させる気か」と息子はショックを受けるに違いないからです。
そこで彼は約束を守って、演奏活動はあまりせず、教師となって多くの奏者を育てました。それが今のコルカタ出身の有名奏者のほとんどでした。(正確には、今のこの時点で見れば、何十年か前のこととなってはしまいましたが)カナイダッタ、シャンカールゴーシュ、シャマールボーシュ、サンジャイムカジー、オニンドチャタジー、オビジットバナジー、皆そうそうたる顔ぶれです。目が眩みそうです。古典のプロ奏者一人を生み出すのでも大変なのに、綺羅星の如くいるではないですか。
日本で例えるなら、どんなことになるでしょう。プロ野球なら1チームのメンバーのうち5、6人が毎年50本ホームランを打つような。大相撲なら一つの部屋に5、6人横綱がいるような。いやー、ちょっとあり得ない、そんなの絶対無理!絵の世界なら岡倉天心の弟子に横山大観、菱田春草、下村観山といますがそれでも3人、だからもうそれこそ初めに名前を出した上泉伊勢守とその弟子くらいしか見当たらないのではないでしょうか。疋田文五郎、神護伊豆、丸目蔵人、奥山休賀斎、柳生石舟斎、うう、確かにすごい、どうだ、これなら負けないぞ!
なんか全然違う話になって、インド音楽と関係ない!と、散々な目に合いそうですがご容赦の程を。
流派のこととはちょっと違いますが、人類の文化史の中で、時々大天才が同時代に生きる場合があります。その最たるものがルネサンスの3大天才、レオナルドダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロだと私は思っております。空前絶後の作品を残した3人が同じ国、同じ街で出会い、褒めたり貶したりしていた。遠い国同士でならあるかもしれない偶然を、全く信じられないような近さで神は実現させた。そこには当然お互いへの反発も含めた影響もあったという、まさに驚異の時代地域だったと言えるでしょう。
さあ、これと同じような時代が他にもあったのか、という思考を巡らせてみるのは大変楽しいことだと思います。同じ時代でちょっと小粒と言うのはあんまりなティツィアーノがベネツィアにいます、この人を3人に加えて4大天才という場合もあります。ひょっとするとこの人はある意味、レオナルドより上かもしれません。何しろ現代油絵の道筋をつけた人ですから。しかし同じ街ヴェネツィアという観点から言えば、他にティントレットやヴェロネーゼがいて、やはり覇を競っていたということで、細かく言えばキリがないとは言えます。
どんな時代にも「何とかの龍虎」「どこそこの四天王」と並び称される人たちはいます。大鵬と柏戸とか、王と長島、猪木と馬場。まあ、日本で最大の同時代の3大天才というのは信長、秀吉、家康というところでしょうか。古くは最澄と空海、北斎と広重。ゴッホとゴーギャンが共同生活したというのもこの中に入るでしょう。古代ギリシヤの哲学者ソクラテス、プラトン、アリストテレス、この3人も空前絶後、音楽ならバッハとヘンデル、モーツァルトとベートーヴェン、あ、そうそう、ロマン主義のメンデルスゾーン、シューマン、ショパン、リスト、ブラームスは動時代の空気を吸っていましたね、文学ならロシアのトルストイとドストエフスキーそれにプーシキンでしょうか。
何を言いたいかもうお分かりでしょうが、インドの音楽界にもつい最近まで、単なる同時代ではない、この「同じ国での3大天才」というエポックが存在したのでした。弦楽器ではラヴィシャンカール、アリアクバルカーン、ヴィラーヤットカーン、二キルバナジー、タブラではティラクワ、ケラマトゥッラカーン、キシェンマハラジ。
しかし、実は私も純粋に本流の方だけを習ったのではなく、それは後からのことであり、初めはガンプラカシュゴーシュの系統に連なるシャンカールゴーシュの系統を学びました。何しろプロノッブさんも、初めは「私の師はケラマトゥッラカーンである」と言っておきながらずっと後になって、いや実は彼が死んだ後はシャンカールゴーシュに習ってたんだとさらっと言うのでした。まあ、そんなことはどうでもいいのですが、サビールに習うようになって、奏法に実はちょっとした違いがあることに気づきました。
重要なプログラムの一つカイダのボールのことです。同じカイダを習います、ずっと同じでありながら最後のところだけは違うのです。トゥンナケナは本流ではトゥンナカタ、これはまだちょっとした言い方の違いであり、全く同じと言っても差し支えありません。しかし、カイダは必ず対になっていて、2行が連となって韻を踏むようになっているのですが、つまり脚韻ですね、1行目の終わりがトゥンナケナ、2行目の終わりがディンナゲナとなって韻を踏み、形式美を保っています。ところが本流ではどちらもトゥンナカタで終わります。この点をサビールに質問したことがあります。「それは流派による方言のようなものだ」ということでした。しかし、ずっと不思議だったのは、同じ流派なのに、なぜ、ということです。こういう終わり方はバラナシ流派のやることのようです。ずっと後になって分かったことですが、実はギャンプラカシュゴーシュは初め、そのバラナシスタイルを学んだということです。それでやっと「なるほど、それを導入したんだ!」と納得したような次第です。でも一体なぜ?ーー「差別化」というのが私の結論です。ファルカバードではあるが、本流ではない、その証として組み込んだちょっとした違い、その「刻印」のようなものではないでしょうか。そこでどっちかすぐ分かるようにした、ということ。
コルカタの音楽ホールで「ロビンドロショドン」というのがあります。ベンガル式発音ですので「ロビンドロ」とは「ラビンドラナート タゴール」のことです。つまりノーベル文学賞を受賞したタゴール氏を記念して建てられたホールであり、美しい庭園も付属しています。ある時その中を歩いていて、一隅で胸像を発見しました。「おや、こんなところに誰だろう?」とよく見るとそれがこのガン プラカシュ ゴーシュの像でした。弟子の一人の財産家が建てたような碑文が彫ってあったように思います。偉大な彼の功績を称えてと。そこで「えっ、ケラマトゥッラ カーンはないの?」と周りをキョロキョロと探してみましたが、残念ながらありませんでした。だからどうなの?と言われそうです。しかし、演奏家、改革家として最大の一人と言ってもいいケラマトゥッラ カーンの名がないというのは腑に落ちません。像までじゃなくてもプレートくらいあってもいいじゃないかと思ったりして、大分しつこく探しましたがありませんでした。まあ、それだけガン プラカシュ ゴーシュが広く尊敬を集めているということでしょうか。何しろタブラだけではなくラーガの知識も深く、多くの生徒を教授し、ハルモニアムの演奏でVGジョグと共演しているLPも残しています。この人も空前絶後の一人と言えるでしょう。
大変です、ただ事ではありません。一瞬硬直した左の男、両手の瓶をパッと投げ捨てると、反対の方へ一目散に逃げていきました。
(第18話 「タブラの流派のお話」終わり)2022.10.29