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第1話「犬」2020.4.14 第2話「カラス」2020.4.22 第3話「ヤモリ」2020.4.23 第4話「天井の羽根」2020.6.17 第5話「バハドゥル・カーン」2020.6.24 第6話「テレビ出演1 プロデューサー」2020.7.4 第7話「テレビ出演2 演奏」2020.7.4 第8話「魔術師」2020.7.6 第9話「タブラ奏者1 サンタ・プラサッド」2020.7.15
ここでは、インドでの体験、面白かったことや、感慨深かったことを通して、印度の人々の印象を書いてみようかと思います。ルポとか記事ではなく、あくまで個人の感想でなので恣意的だったり、また読む上での潤滑油としての筆の突っ走りもあるかも知れません。一時、こういった類いの旅行紀や滞在の体験記がたくさん出版されたため、余りめずらしいものではないので、読者を得られるかどうか分りませんが、そこはかとないおかしみを求めて、書けていけたらと思います。思い出したものから、少しずつ書いて行く予定です。インドも大きく変わってきているようです。そういう意味では40年前のインドを描くというのも、悪いものではないでしょう。順序は全く時間軸に沿ったものではなく、時には日本でのことも入れてしまうかも知れません。
長くいると、えらく信用されてしまいました。あれは、半年くらい経った寒い冬の頃、コルカタですから雪が降る訳ではないのですが、2月だったか、結構寒くなるものです。その当時、経営しておられたのはお母さんとその息子さんペンバ氏の二人だったんですが、娘のいる所へ会いに行くというので、十日間くらいだったか宿を空けるということになりました。えっ?その間、宿泊客はどうするの?とまあ当然そう思いますよね。するとその間のことは「あなたにお願いする」というのです。でまた、えっ?と。
あの僕「骸骨人」と言いたい、もちろんすぐ「ホワイ?」と訊きました。だって使用人は居るし、他に誰かいるでしょう、と思ったからです。ところが日本の常識は通用しないようでした。結局すぐに引き受けました。それだけ厚い信用を受けているから、というより、まあ、他に頼る人がなかったのでしょう。そこは日本人、「よし、ならば引き受けよう」と固い決意のもと、という程のこともない、何しろ次々と新しい客が押し寄せるというような所ではなく、私のような長期逗留者とか、その辺はまた別の所で書けたらと思いますが、いろいろとは言っても縁故や人伝で来るような人しかいなかったので、お客に対する心配はいりませんでした。
さて話変わって、インドには路上たくさんの犬がいます。中型犬ばかりとは言っても、やはり恐ろしくはあります。が、大抵明るいうちはその辺で寝そべっていて何もしません、ただ寝ているだけ。しかし、夜になると動き出して、本性を出して、敵対する犬同士がいがみ合ったりするので、途端に人間は近寄らないようにします。インドの人は、その辺慣れたもので、扱い方をよく知っています。各国の事情というものがあるので、今外国の価値観で糾弾するというようなことはしたくありません。ただ、事実を書いて行こうと思います。
「犬も歩けば棒に当たる」という諺があります。意味は何でも「じっとしていてはダメだ、動けば何かきっかけのようなものにぶち当たって、運命が開かれるかもしれない」というような意味があるそう。また、これは新しい解釈で、本来は「ウロウロするんじゃない、ろくなことないぞ」というのが正しいことらしい。インドの犬は正にこの本来の意味で生きているのかも知れません。人が犬をコントロールする方法は、そう、この棒なんです。太いんです。その太いので思い切りぶん殴ります。背骨の辺りを。折れたらどうすんの、とか余り考えてないように見受けられます。「キャイ〜ン」と啼いてすごすご退散。人間の怖さ強さを思い知らせればいいのです。それが現実です。ただその分、犬狩りとかはありません。同じ所で生きていても、違う人生を送っているのです。彼らは彼らなりに、好きなように生きて、インドという地を人間と共有しているのです。
前置きとしての予備知識は伝わったかと思います。さて、そのボーディングハウスに、1匹の犬が何時の頃からか、いつくようになりました。ごく普通の色柄、黒と茶の斑、腹面が白っぽくちょっと明るい、というような、若いからか少し細身でしたが、インドでは一般的な犬でした。ただ寝ています。別に飼われていたのではなく、誰が構うという訳でもありません。多分、本来はその辺の路上で生まれ育ち、ウロウロするうちにそこに到達したのでしょう。確かそこは5階にありました。まあ、全て偶然がもたらしたもので、それを誰も気にもとめません。ドミトリーというよりはボーディングハウス、つまり賄いがついてるので、希望の宿泊者には3食作ります。私もそれを食べていました。ティベット人、つまりヒンドゥー教徒ではないので、いつも牛肉のカレー、その方が安いと聞きましたが、「日本でこんなに牛肉喰ったことない」というくらい、毎日食べていました。その残りでも食べていたのでしょうか。
昼の間は、スンダリという名の、若い女の子が綺麗に拭き掃除した、冷たいコンクリに腹を載せて、その犬は安心し切って寝ています。でも、夜9時だったか10時だったかになると閉門の時が来ます。するとママさんがかんぬきに使う太い棒を手に持ち、どすんとコンクリの床を打つや、うなだれた犬はそこからとぼとぼ立ち去って行きます。多分次の朝まで、階段で待っているか、路上へ降りて、元気に跳ね回っていたかでしょう。しかし、すぐに動き出さなかった時などは容赦はありません、すぐにその棒で突っつかれます。時にはその役目を隣に住む坊やが買って出たりすると、途端に力が入るというか加減ができません。それが、ちょっと気になっていました。
そんな所にある日、棚から何かが何とやら、幸運がめぐってきて、突然一国一城の主になってしまいました。期間限定でも構いません。こんな機会は又とあるもんじゃありません。とは言っても「この隙に」と特段悪いことや私利私欲にまみれたことをやり始めた訳ではありません。当然賄いのためのスンダリ母娘がいたり、他の宿泊者達がいます。引き受けた以上、全く落ち度のないように事が運んで行くよう、見守っていくしかありませんし、そのつもりです。お殿様は気分だけで、本当は臨時管理人です。何しろそのフロアーの鍵まで預かったのですから。
入り口の扉の朝と夜の開閉は当然自分担当ということになり、初めてその重いカンヌキ棒を手にしました。そして最初の夜、閉門の時その犬をドスンと、‥‥追い出さなかったのです。これだけは「我意」というものが、どうしても働いてしまいました。おかげでその十日間というもの、ずっと犬は部屋の中にいることができました。きっと向こうも、
「なぜだろう?」
と思ったことでしょう。でも食べ物をやった訳ではありません。ただ夜、追い出さなかったのです。期間限定のお殿様になってやったことはただそれだけです。
2、3日たったある夜、寝ていると、妙に掛けていた毛布が重く感じます。
「ん?」
と思ってそっと目を開けます。
インドにはこれまた野放しの、日本人から見れば「巨大」な30cmくらいのヤモリがどの部屋にもいます。彼らにも縄張りがあるようで、時々追っかけっこをしたりしますが、サルも木からで、壁を天井を掴み損ねて、寝ている上に落ちてきたりします。その重みにしてはちと重い、といぶかしみながら。
な、何と中に入れた犬がベッドの上、私の横で寄り添うように寝ているのです。
「それがあ?」と思われるむきもあるかも知れませんが、余りインドでは見かけない構図です。
第一、その当時「犬を飼う」なんていう概念は、余りインドになかったことだと思います。日本で言えばカラスのような存在でしょうか。カアカアうるさいし、時々ゴミをあさって散らかす、困ったもんだが、さりとてまあ、向こうもこの自然界で生きてる訳だから、皆殺しという権利も人間にはなし、といったような。そこら中にいる困ったもの、といったような存在。それを敢えて飼うというような、そこまでの余裕は当時のインド人には、おそらくなかったんじゃないかと思います。
ところがこの懐きようです。このことって、いくらインドの現実の中でも、犬と人間の関係に完全な「断絶」のようなものができていた訳ではない、ということの「あかし」のようなものではないでしょうか。おそらくその犬も、この特例を許してくれているのは誰か?という問いのあと、
「ははーん、あの日本人に違いない」
と気付いたに違いありません。そして、「恩返し」ではありませんが、いつの間にかちょこんとベッドに乗って親愛を示そうと。こんなとこ綺麗好きなママさんに見つかったら大変です。何しろ私だけ、特別に丈夫で綺麗なベッドで、しかも信仰厚いラマ教の結構立派な仏像の安置されている部屋で寝ていたのですから。でもいません。
「あんしん、あんしん。」
とまた寝入りました。寒い頃だったのでちょうど良かったのです。犬もそんな柔らかで暖かい所で寝たのは、多分生まれて初めてのことだったでしょう。
やがて約束通り、家主のお二人は帰って来たので鍵を返し、その間、お客から徴収し、保管していた宿泊料を渡し、感謝され、私の役目は終わりました。また従前の一宿泊客に戻ることとなり、当然その夜から犬は追い出されることになりました。しかし、どうもその後その犬は姿を見せなくなり、何処かへ行ってしまったようでした。せっかくいい住処を見つけたのにまた追い出された、という失望感から、
「もういい!」
と、飛び出して行ったのでしょうか。よく分かりませんが、余り気にも留めていませんでした。
ひと月ぐらい経った頃、もうかなり暑くなっていました。段々暖かくなる、というような感覚ではありません。春になるといきなり暑くなります。まぶしい、ホコリっぽい道を、ボーディングハウスから少し行った所にある郵便局に向かって歩いていました。その時、いきなり犬が道の脇、階段の下から、慌ててもぞもぞと這い出てきます。そして尻尾を振って体を寄せて来たではないですか。よく見るとあの犬でした。
「なんだ、こんな所にいたのか!」
と、嬉しさの余り声をあげてしまいました。
それにしてもよく私だと気付いたものだ。ずっと通るのを待っていたのだろうか?そこを通るなんて知る由もないことなのに。
コルカタには古い建物がたくさんあります。イギリス統治時代の名残のようです。中にはずいぶん立派な邸宅のようなのもあちこちあったりします。そこまででなくてもちょっと大きいものになると、入り口が少し高く、上がるためのコンクリ製の階段がしつらえられています。するとその下、または裏というものができます。普通日本だったらこういうものができないよう左右を蓋をする、または全部コンクリで固めてしまうんでしょうが、インドはそんなもったいないことはしません。するとそこは犬達にとって格好の隠れ家となります。すぐに自分が這い出てきたそこへ、案内しようとします。「なんだい」とついて行って覗いてみました。
すると、その狭い隙間には生まれて間もない子犬が5、6匹固まって母犬の帰りを待って「クンクン」と啼いています。その犬が雌犬だということは分っていましたが、妊娠しているとは知りませんでした。もともとほっそりした犬だったので、そんな風に見えなかったのかも知れません。
「うわ、子供が生まれたんかあ!」
何だか異国で家族が生まれたような、幸せな気分にもなりました。その現場に立ち会えたような。あっ、でも言っておきます。だからと言って飼おうとか思った訳ではありません。そんなことできません。お互い異国の者同士、こっちは過客にすぎません。覗いたのはその1回だけ、その後またその犬に遭うこともなし。でもその時、母犬は大変満足そう、仕合せそうでした。その記憶は今でも鮮明に残っています。若い犬は棒で打たれながらも、諺のもう一つの意味、「歩き回って幸運を探す」というのを実行していた訳で、そしてそれからもその「生命の基本方針」を続けていったことでしょう。きっとその子孫達は、繁栄かどうかは分りませんが、今もコルカタでその生命の連鎖、サイクルを繋げていると思います。犬達よ、永遠なれ。
(第1話「犬」終わり)2020.4.14
さて、地上はどうでしょう。インドの現実が広がっています。すぐ眼下は鉄くずの集積場になっていました。全体は何十メートルもある敷地で、そこを波を打ったような鉄板とかで区画分けをし、それぞれにトラックがやってきて赤茶けて、さびだらけの古びた鉄屑を降ろして、それをまた山のように積み上げて行きます。その鉄くずの山の壁がこっちの煉瓦を積み上げてできたビルのほんの3メートルほどまで迫っています。鉄の山の上には作業する人が乗っていて、手に鉄棒を持ち、その先端についている円柱状の重い鉄塊で、どすんどすんと空き缶とかを押しつぶしてはいましたが、必死の様子でもなく、何だか少しのんびりしたものに見えていました。
その周辺には路上生活者達がいました。表通りなどは、うっかり遅くなって真っ暗になった頃に帰ると、舗道上は布を敷いて眠る人であふれ、踏んずけたりしないよう、抜き足差し足でそっと歩かなくてはならないくらいです。しかし、その区分けの鉄板の壁に張り付いたような形で、何処からか、かき集めてきたような材木を使って、小屋を作り付けている一家が住んでいました。背の高い、痩せて、ほお骨の突き出た、それこそ精悍な顔つきの父親が、一家を率いてるといった感じで、表の路上で、取り壊した家から出る古い木材、割れた板を縄で縛って束ね、燃料とかで売れるんでしょう、汗を流して毎日一生懸命でした。
彼の家族もまた一日その辺で働いています。こちら側のビルと、鉄くず置きの仕切りの鉄板の間の地べた、まあ、路地とでも言うんでしょうか、そこに座って作業をします。前に一個の煉瓦、手には金づち。古板から出てくる折れ曲がった釘を煉瓦に載せ、金づちでトトンと叩けば、あら不思議、ほとんど一、二発で真っすぐに直します。サッと手をすべらせ、真っすぐになった釘を横に払い、次の曲がった釘を煉瓦に載せ、またトトン。この繰り返し。簡単そうに見えても、長年やってるから1回2回で直せるんでしょう。これが妻の仕事、あ、いや、妻だけではありません。おばあさんもむすめ達も、皆周辺に座ってやっています。5、6歳の女の子まで本当に器用に手を動かして。(赤ん坊だけが、おしめもせずにそのでこぼこの地面の上にオッチンしています。)手も動いていますが、口も動きます。会話は何やら、常に弾んでいました。
そのすぐ横の方では、家はあるが、仕事もせずにブラブラしている若い連中、若者が、円盤でできた玉突きゲームのようなのを、これまた日がな一日飽きもせずやっていたりしました。何ともコントラストの激しいもの、彼らとて多分、怠け者というのではなく、仕事がないからそうしていただけなのでしょう。
さて、いよいよカラスの登場です。このカラスがまあ犬に負けず劣らず沢山います。真っ黒ではありません。ちょっと小型で、肩の辺りが灰色がかっています。よく知りませんがひょっとしてこれを「ワタリガラス」というのでしょうか。「どうして机に似ているのでしょう?」というやつです。いや、それはどうももっと大型のようで、どうやらイエガラスと言うようです。まあ、ここは動物専門ではないので、これ以上の詮索はやめておきます。別に日本式の真っ黒のもいるらしいんですが、見かけたことはついぞありません。で、このお家のカラス君の方が、見ていると鉄くずの山に飛んできて、針金を丹念に物色し、やがて1本ずつくわえては飛んで行きます。一体何にするんだろう?全く分りません。
カラスというのは「何でも食べる」というのが通説のようです。もちろん「屍肉」もです。だから、ガンガー(ガンジス川)のほとり、遺体の焼かれるガートの周辺にはこのカラスがたくさん住んでいるそうな。何とも薄気味悪いですが、これも大自然のサイクルの一つということでしょう。路上に、何か食べものをうっかり落したとします、するとすかさずカラスがやってきて、さっとくわえて持って行きます。「ちっ、やられたか」と、まあ、別に落ちたものを拾って食べるわけではありませんので、そうは思わないでしょうが、路上を綺麗にしてくれていることは確かです。しかし、それにしてもですよ、「針金を喰うカラス」ってのは聞いたことがありません。でも、目の前では日に何本も何本も。
日が暮れると、カラスは帰って行ったのか、姿を消します。人も仕事を終えて、夕食の準備となります。そういう薄暗い頃、先ほどの一家の前を通ったりすると、路上、ロウソクをともし、子供らが集まって何かしています。「何してるんだろう?」と思って覗いてみると、ノートを広げて勉強をしているんです。
やがて冬が近づき、木の葉が落ちる頃になりました。インドでも「落葉」ってあるんだ、とその方が少し驚きでした。一年中暑いんだったら、一年中緑の葉っぱが生い茂ってるんだろうと、何となく思っているもの。その大きな葉が一枚また一枚と落ちて行き、やがてすっかりなくなって、枝がむき出しになってしまいました。全ての木々がそうなったというわけではなく、落ちる木もある、ということなんでしょうが、喬木の多くが枝になりました。するとどうでしょう、謎が解けるときが来たのです。
ことほど左様にインドの生き物、人々はたくましくできていて、驚くようなことがしばしばありました。
過酷な自然や、過酷な状況を、知恵と工夫、バイタリティで乗り越えて行く。
音楽でもそうです。深く静かで、瞑想的な面もあれば、やがてとんでもなくエネルギーに満ちあふれたものになって進んで行きます。インドの産業と同じようにインドの音楽も、広がっています。
両手を広げ「こんくらいのが前の道にいた」とか言うインド人もいました。この手のことをインド人はよく言います。人を驚かせるのがインドのジョークの基本、ちょっとでも相手が混乱したりすると、してやったりと喜ぶ、という図がよく見られます。「俺は騙されないぞ」とか身構えるのはやめましょう。そういう「文化」です。
蛇だったかトカゲだったかヤモリだったか忘れましたが、「タッカック」というのがいるそうです。樹上にいて下を通る人がいると、真上から落ちてきて、頭頂部に噛み付くとか。毒持ちなので人はイチコロです。へえー、とちょっと驚いてやることです。意地悪ではありません。礼儀です。これは私が帽子をかぶっていたため、
大分年齢を重ね、髪がうんと薄くなってからのことですが、その頃はもう、直射日光がかなりこたえるようになり、帽子というものを探したんです。しかし、いいのが見当たらず、結局クリケットの審判用の白いのを買い、いつもかぶっていました。それがまた、彼らのユーモア精神に火を点けたのでしょう。
「お、お前、ハ、ハ、ハゲてんのかー!ヒーヒヒヒッ、ヒヒッ、ヒッ‥‥、クークククッ‥‥、そ、それでこの帽子を‥‥、ハヒハヒハヒ‥‥、ヒヒッ、」
いや、何だか脱線気味です。要するに、こんなふうなジョークや笑いの種を生活の中に見つけて、インド人も生きているということを知ってもらいたかったわけです。結局その帽子はホーリー祭の混乱の最中、見知らぬ若者に「これおもろい」と、持って行かれてしまいました。これらもその一連のジョークの中に入ります。すべて「あっはっは」です。
話を戻して、ヤモリのこと、彼らは逃げません。虫を捕食するのが仕事なので、人が近寄ったくらいで逃げていては始まりません。暗くなり、灯火に虫が集まってくるのをじっと待っています。壁の色はだいたい薄緑色に塗られていることが多いので、彼らもその薄緑に変身しています。樹上などでは保護色よろしく、グロテスクな色にもなるのでしょうが、部屋では近寄っても余り気味の悪さを感じさせないので、よく観察してみました。その方面のマニアではないので虫眼鏡なし、不確かなことしか言えません。が、とある驚くべきことを発見してしまいました。
頭の両側には耳の孔があります。そこは両生類のカエルとは違います。水に潜ったりはしないので。
ははーん、こりゃ大分インドの「文化」に染まってしまったんだな、と思われることでしょう。確かにここには誇張があります。それは「景色」です。何しろ壁に張り付いている生き物ですから、そのいくら大きいといってもコモドドラゴンほどでもなし、壁から2㎝の高さ位にあるその孔に、目を持って行くのは不可能です。特に私はほお骨が高いので、いくら壁に押し付けても、壁が窪まない限り見られません。そこまで硬くはありません。
しかし、灯火に大きな蛾が飛んできたりします。
要するに家を守っているのです。日本語の意味そのままです。そして「犬」のお話の所でもちょっと触れたように、どうも縄張りを持っているようなのです。その辺も日本のとは大分違います。確固たる「我」を持っているというか。「一寸の虫にも五分の魂」と言いますがインドなら、「一尺のヤモリにも五寸の魂」でしょうか。「根性」と言ってもいいかも知れません。逃げも隠れもせずその部屋の領有権を争う、狩猟家といった感じ。
これが夜、寝ていると上から落ちてきたりします。やはり、虫は灯火に集まるもの、それを求めて領界侵犯せざるを得ないことになりますが、勝手にひかれた線を超えると、より大きい方のが、荒くれて迫ってきます。追い払われた方が逃げ惑い、手を滑らせるのです。かなりのスピードで追います。素早く逃げるためのテクニックとして落ちるのかも知れません。
そういう関係を続けていると段々愛おしい存在になってきます。まあ、ちょっと日本に移入というわけにはいかないでしょうが。日本で同じような商売をしている者達が、被害を受けること間違いなしです。日本固有のヤモリとか、わが部屋にもたくさん生息するハエトリグモとか。猫を飼っている家では、猫が無関心ではいられないと思います。必ずちょっかいを出します。この点も不思議ですが、インド人は何故か余り猫を飼いたがらない、と言うか、ほとんど興味ないようです。飼われてないというより、野良でも少ない。時たま屋根の上を歩いているのを見かけるくらい。
コルカタの発電所の所長が配電盤を前にして、こんな独り言を言っています。
日本の田んぼの水の配分に似ていなくもありません。わずかな谷川の水で水田を作ってる村人達は、厳格な管理の元に時間を決めて水の向きを変えているそうです。あ、いや、全然そういう意味では似てないですね。何の前触れもなく適当にストップさせるだけですから。配電盤の前の人には、市民の嘆きの声や怨嗟の声は届きません。「平等」とはこういうことなんでしょう。
電気が通ってる限りは、夜中でもつけたままで寝ます。さすがに常に風が当たると、血行が悪くなってしまうので「消した方がいい」という気がしますが、毛布を頭からすっぽりかぶって、ぶんぶんファンを回して寝るのがインドの流儀です。
さて、先生のプロノッブさんの家での出来事です。あるとき尋ねると、部屋のペンキ塗りが始まっていました。家族総出で、慣れない作業に挑んでいたのです。どうもこういうことって、インド人苦手のような気がします。そもそも「ドゥーイットユアセルフ」というような概念がなく、ちょっとしたことまで、それをやる人(あえて「その道のプロ」とは書きません。これが今回の「伏線」のようなものです。)にやらせる、というのがインドの生活スタイルです。それによって多くの人が生きて行けるわけで、アメリカ人のように「家まで自分で作ってしまう」というようなことでは、そもそも社会自体が立ち行かなくなります。多くの人が、ちょっとした仕事で生きているのでした。
次の日また訪ねると、見知らぬ男が入って塗っていました。「高い方はもう無理」ということで、連れてきたそう。しかし、これがまた、どう見ても下手、と言うか、余りにもあんまりなので、呆れてしまいました。はっきり言って「常識」というものがないんです。今から塗ろうとする部屋の家具とか電気製品とか、汚したくないものは、普通外に出すでしょう。それをそのままで塗る、だからペンキのしずくがテレビや棚にかかる。でも皆「ふーん、そうなんだ」と見てるだけ、まるで「運命」の前に、あらがう術を持たないかのような人達。
高い所は木製の脚立のようなはしご、つまり下がえらく広がった、A字型のはしごを壁にかけて塗っていました。もちろん暑いので、シーリングファンは回っています。私は用事があったのでその辺まで見た所で外に出て、夕近くまた帰ってきました。すると事件は起こっていました。
この後すぐくらいに私は帰ったようで、そのときプロノッブさんは奥さんに向かって、こう言っていました。
--しかし、これはどう考えてもおかしい、何しろ言葉の向かうべき相手が違うだろう!--
もし、その場に私がいなかったら、話はこれで終わっていたでしょう。しかし夜になるとプロノッブさんはこう私に言ってきました。
それからも、息子である所のキリット氏−−彼はサロードをやらずシタールを父から学び、少し上の兄がサロードを受け継いでいました−−の度々の誘いに従って、よくそちらに伺うようになり、そこに来ていたタブラ奏者、プロノッブさんとも交流が広がって行くことになりました。
その時は日没頃出発したので、演奏するには9時には着くだろうから、そろそろ着かなくては、とか思いました。しかし、着きません。
さて、着いたのは夜もとっぷりとふけた、真夜中0時過ぎ頃だったと記憶しています。それに、どうも会場の周辺には何もないよう。一体どんなところ?と一人で幕の外へ出てみると、そこは会場から漏れる光で、新鮮な緑の水田がぼんやり見えはすれども、その背後は漆黒の闇に包まれた空間がどこまでも続くという別世界でした。カエルや虫の鳴き声だけが、うるさく聴こえ、すぐその辺の草むらからコブラでも出てきそうな感じだったので、あわてて中に引き返しました。
インドには、舞台作りの職業集団があるようです。よく知らないのですが、そう確信できるのは、仕事の的確さ、またプジャ(お祭り)の多さから来る、にわか舞台の頻繁な必要性があるからです。彼らは、日本のような金属パイプではなく、インドに生育する節が多く、肉厚が3センチくらの丈夫な竹(バンスリーに使う竹とは全く正反対の性質を持つ竹です)を麻ひもで組んで、街の辻つじに、一晩で構造物を出現させたりします。それを白い布で覆い、神像や花を飾ったりし、浄められた舞台に仕上げるのです。
その時の舞台は白い幕が幔幕のように周囲にめぐらされ、小さな体育館ぐらいの広さの会場の仕切りとなり、押しかけてきた近在の村人達を、熱気むんむんと言った状態で包んでいました。典型的なプジャの催しのようで、その目玉として呼ばれたのでしょう。普段、あまり古典音楽など聴いたりしない一般民衆にも、有名な奏者を呼んで、一つ高邁な音楽を聴いて、伝統文化を味わう時間を持ってもらおうという、主催者(多分村の有力者、お金持ち)の意気込み。それに応えるべく、1、2時間とかではなく、新幹線なら日本の端から端まで移動するような時間をかけて、演奏に赴くんです。いやー、普通に疲れます。それも演奏の直前、しかも日付変わって到着するという、インドでは当たり前、日本では「とんでもない」「無茶だ!」となるプラン、つい「旅の疲れは?」と思ってしまいますが、何でもそうですが、そういう「概念」をもたない人には、あまり関係ないようです。これが日常であり、こうやってインドの音楽家は収入を得、家族を養っているわけです。
休憩もそこそこに、すぐ舞台へ移動し、私も一緒にそこへ。かのグレート・ウスタード・バハドゥル・カーンの真横にでんと座りました。不思議とあれだけ苦しかったお腹具合も、その頃には少し楽になっていました。
しかし、その時の私は、ちょっと別のことを考えていました。共演者のタブラ奏者のことです。出発前、相手タブラ奏者の名前を訊くと、マハプルシュ・ミシュラ氏とのことでした。
当時、まだそんなにインド音楽は日本には紹介されておらず、LPレコードとして販売されていたものは、それこそラヴィ・シャンカールかアリ・アクバル・カーンしかありませんでした。そしてタブラ奏者はそれぞれアララカとマハプルシュと相場は決まっていました。そのあんまり知らない中で、世界的に有名なマハプルシュ・ミシュラの演奏が間近で聴けるとなれば、心弾みます。
「その違いに何か意味があると言うのか?」
さて、名前を尋ねるような時間もなく、すぐに演奏が始まりやがてタブラが入ってきます。すると、
帰ったのが何時で(多分朝)、どこへ帰ったのかとか全く記憶は残っていませんが、1日置いてプロノッブさんの所へ行って、体験を話しました。すると
最近の若い奏者は、妙に老けた演奏をするので、面白くないと言うか、あまりにもこましゃくれた印象を受けてしまいます。早くから「固まり過ぎ」、小学生がティラクワ状態、飽和状態、これはやはりインドでも、何か「文明の変化」とでもいうものが起こっているように思えます。音楽学校が公立私立ともに整備され、「昔ながらの教え方」というものは、今の「民主主義」の世の中にはそぐわない、唾棄すべき「旧弊」として、追いやられる運命にあるのでしょう。それに、繰り返し聴くことのできる機器、名人の動きまで仔細に観察できるビデオ動画、これが普通に出回っている状態で、その表現を押さえた練習ばかりを強いるのは、土台無理とも言えます。
サビール氏の所へ習いに行くようになるのは、このことから何年か経った頃です。もう、その頃にはすっかり落ち着いてしまっていて、あのとき見た、昔日の面影はほとんど残っていませんでした。反対にバハドゥル・カーン化していて、それこそ鷹揚に迎えてもらい、肩をポンポン、「なに、ジャパニ、まあ、よく来た、ちょっとひいて見なさい」というような調子(本当は何も言わなかったのですが)。「ちょっとムリしてるんじゃない」と思わなくもありませんでしたが、嫌みはありません。多分、本人も少し緊張していたんじゃないかと思います。
バハドゥル・カーン氏にはその後も何度か演奏会に付いて行きました。さすがに、市内の会場では、真横に座ることはなかったのですが、そのたびに録音しました。後になって彼の若い頃の動画を見て、「ヘー、結構アグレッシヴだったんだ!」と思ったりしますが、その頃はとにかく「スイート!」、誰も真似のできない感覚でした。それに比べたら、アムジャッドのはまるで無機質な、ちょっと薄気味の悪いような、弦がベロベロしてる音の羅列のように聴こえました。ファンの人には悪いですが、その頃はそんな印象を受け「好きになれないなー」と思い、一方、バハドゥル・カーンは抜群の指のソフトなタッチで、甘く、美しいメロディーを紡いでいて、これぞ!と大いに思いました。まあ、もっとも「これ以上ない」と思った甘さは、あの車中で食べたダヒの方だったかも知れませんが。
しかし、録音はここに描いた最初のが残っているだけで、他のは持っていません。後でダビングして日本から送るといくら言っても、ご子息のキリット氏に信用してもらえないと言うか、理解してもらえなかった、といった感じでした。
今現在のインドのテレビというのは、正に多チャンネル。何十あったかちょっと忘れてしまいましたが、一通り「何やってるかな?」とぐるりとチャンネル一回転して内容を確認するだけで10分ぐらいかかったように記憶しています。こっちの方が最近の記憶なのに大分曖昧です。30いくつだったか。しかしそれは多分2000年代以降になってからのこと、当時(1980年)は白黒で、チャンネルもほんのちょっと、やってるのは古い映画、鍵のかかったテレビの扉を厳かに開け、家中みんなで鑑賞するというようなものでした。
後、ローカルのチャンネルが一つ。コルカタ、当時はカルカッタ、は西ベンガル州なので、‥‥ついでに書くと、じゃあ東ベンガル州ってどこにあるのという気になってしまいます。以前は一つのベンガルという大守の国であり、それが独立のとき、東西に分かれてしまったということです。で、東は?はい、それが現在のバングラデシュです。だから東ベンガル州というのは、ないんです。
ここでの番組はやはりそれらしく、ご当地ものの紹介、ということがメインとなっています。実は、そこのプロデューサーがプロノッブさんの近くに住んでいて、親交が前からあったようです。そのあたりはカルカッタでも少しはずれにあたり、のんびりした風景の広がる、しかし田園風景でもない、古くから住んでる人達で守られている、と言ったような町(村)でした。
「テレビに出てみないか」
「そんなー、習ったことそのまま叩けばいいじゃないの、それがどうして?」
しかし、まあ、自信はさておき、「面白そうだ」という気もしたので、OKしてしまいました。やがて、そのプロデューサーと会うことになり、会っていろいろ話を詰めて行きましたが、初めはなんかとんでもないことを言っていました。何しろ、「これは日印の文化交流だから、インドばかりじゃなく、日本の文化の紹介もしてくれ、そうだな、1、2曲日本の歌でも歌ってくれ、そうすれば両方の文化が紹介できるじゃないか」、というようなことでした。
私は真に受けてしまいました。その後すぐ、手紙で日本の友人に「中島みゆきの楽譜を送ってくれ、俺はインドで『時代』を歌う羽目になった!」と書き送り、その練習もやりかけていましたが、「あれなしな」と、後でプロノッブさんが連絡してくれました。拍子抜けはしましたが、内心そりゃその方がいいに決まっている、と安心をした次第。
泊っていたティベッタンボーディングハウスには、何故かギターが1台置いてありました。それも和音が弾けるのが。インドではこれは大変めずらしいことで、たとえあったとしてもいわゆるインド式のハワイアン、弦高の高い、フレットはついていても、弦を押さえることのない、スライド式のものばかり。なのに、誰が弾くというものでもなく、無造作にぽんと。だいたい、コードという概念をインド人はあまり持たないので、本来不用、多分外国映画を見て、形を真似るためだけに買ったものだと思います。映画だと、丁度日本の小林旭が肩にギターを担ぐような案配で、インドのタフガイ俳優も担いだりしていますが、この際だ、「ギターとはこう弾くものだ!」とか見せようなんて思ったわけです。「ここから新たな文化がインドに始まる!」とかの気負いでしょうか。イヤーなくなって本当に良かった。
さて、ここではその演奏のことより、そのプロデューサーのことについてもっと書いてみたいと思います。
写真でしか知らなかったので、興味津々。ここでも調子に乗って、描かれた「仏足跡」のような足形に、我が足を載せてみました‥‥、これはウソ、いくら私でもそこまではしません。ただそう訊いてみました。すると、
テーブルにつくと料理が運ばれます。すべて奥さんの手料理。それがとにかく充実したものだった、ということをよく覚えています。ベンガルの家庭料理だったので、何とかの丸焼き的なものではなかったのですが、10種位の品数の、とにかくすべて神経の行き届いた、素晴しい料理でした。日本人の「おもてなし」とかがちょっと薄くなると言うか、吹っ飛んで行くと言うか。
この美しい記憶に、泥を塗るつもりはありませんが、さあ、ここからがインドならでは、ということです。2週間くらい経った頃でしたか、今度は反対にそのプロデューサーが私の泊ってる所に来ると言い出しました。すると、いかめしい顔でプロノッブさんはこう私に言いつけます。
「ええ!そ、そんなん、できっこないよ」とは思いましたが、もうその頃はインドでの生活で、いちいちまともに取り合っていたんじゃ、「こっちの身が持たない」ということに気付いていましたので、うっちゃっておりました。どうしたらそんなことができるのか、ちょっとでも考えたら分りそうなもの、こっちは外国人で、ただの下宿人、どっかへ食べに行こう、なら分るけど。「お・も・て・な・し」なんて、とんでもない。
最終的な「詰め」のためというようなことだったのですが、そんな理由も見当たらず、多分どんな所に住んでいるのか見たかったのでしょう。それなら昼間にと思うのは日本人か。約束の日、本当にプロノッブさんとプロデューサーは、灯り一つない階段、4階だったか5階までだったかを上がって来て、二人揃って暗闇からぬっと現われました。何とも場違いな感じがしました。何しろ、こっちは特殊な区画、ティベット人の経営する小ホテル、そこにいるのは他にブータン人、ベトナム人、そして日本人というアジアでも東っぽい面々、そこへテレビのプロデューサー、いくら「こっちこそがインド人」とは言っても、その中では何とも異質に見えました。そして、時刻も夜9時を過ぎていては、言いようのない違和感。しかし、プロノッブさんは私の耳元で、こう言い放ちます。
今風に言えば「まじかよ」、といった所。こんなに遅く来るんだったら、どっかで食べてきたんと違うんか、と思うのは、やはり日本式というものか。仕方なく、料理担当の女の子スンダリに「外で買ってきてくれないか」と頼んでみる。しかし小さく手を振り、一笑に付されてしまう。エエイ、ままよ、と一人外に飛び出しました。
ところが、時間が時間、路に長椅子を沢山出してるような店も、軒並み片付けの最中。小僧さんが、手に焼け残りの石炭殻を持って、せっせと大鍋を前の路上で洗っている。それに都心とはいえ路地裏は真っ暗、そりゃ誰も買いに行ってくれるはずもない。身の危険さえ感じる。一体、インド人自身は、こんなとき、どういう解決法を持っているのだろうか?生涯の「謎」と言ってもいい。カルカッタの裏路というのはまるで迷路、普段、決して通ったりしない小径を絶望感に駆られ、当てもなくどんどん走って行くと、十軒目くらいか、ついに
またハアハアと言わせて帰り、それを皿に移し、食してもらう。確かにチキンはチキンだが冷えてるし、これまたあまりうまそうではない、薄っぺたいローティとともに。でも、何も言わず無心に食べていただきました。その辺は立派。その後はちょっとタブラを叩いてみせたり、何かの話をしたりして、「打ち合わせ」とかいうものを終え、帰っていただきました。もう11時過ぎた頃でしょうか。
日印文化交流、なかなか異文化が交流するというのは大変だなあ、とつくずく思いました。まあ、そんなこんなで、本番の日はやってくるのでした。
それを弾いてもらっていたのが「ポンリッジ」と呼ばれる、おじいさんでした。バラナシから来ているということでしたが、当時はまだ機械仕掛けのラハラマシンがなかった頃なので(ああー、機械がすべての仕事を奪って行く!)、引っ張りだこで各家々を飛び回っておられるようでした。一種の出稼ぎのようなもの。いつも時間を気にしておられたような。後年、「あのポンリッジさんはどうしてらっしゃいますか?」とプロノッブさんに尋ねたことがあります。すると、
「我々は、バラナシから来た人は、皆こう呼ぶんだ」
話は少しそれますが、プロノッブさんから聞いたこういう話では、他に「カサヘブ」というのがあります。これは「カーン サヒブ(旦那)」というものの聴き間違いであり、立派なイスラム教徒の年上に対する尊称。「イスラムの旦那」というようなことでしょうか。ですからいつも「バハドゥルカーンサヘブ」と尊号を付けて、プロノッブさんは語っていました。
その訊いた時点では、もうポンリッジさん、故郷へ帰られたとのことでしたが、そのテレビの時は一緒にスタジオでやってもらったのでした。当日、プロノッブさん、ポンリッジさん、そして私と3人で放送局へ向かうと、プロデューサーが迎えてくれ、すぐスタジオに入りました。地方局ですからこじんまりとしています。テレビ映りがいいようにと、直前に化粧室へ通され、顔にドーランとか塗られ、いざ本番。
と言うか、録画なんですね。インドでも、当時既に録画ビデオが導入されていたわけです。そこで、「失敗しても、もう一度撮り直しすればいいじゃないか」という気が起きてしまいました。ところが、そういう感覚もインド人にはありません。何でも一発です。繰り返せば経費がかさむだけです。こっちは、途中一周期空いてしまって「こりゃ、もう一度だな」と、終わりの方はポンリッジさんが、後1分という指の合図を、後1回と勘違いし、えらく早く終わったりと、当然「さあ」と2度目を構えていると、「あれ、あれ、あれっ」と周りのカメラや音響は片付け出します。「えっ、なんだ、終わりか」と。
少々残念な気持ちはありましたが、それで放送局を去り、帰路につきました。さあ、問題はいつ放映されるかですが、ひと月近くたった、4月に入ってからでした。もう一つ問題、その放送をどこで自分が見るか、です。泊っている所には、テレビがありませんでした。すると、同じフロアーの隣の居住者、中国人一家のとこで見せてもらうことに。当日行ってみると、いつも周辺で見かける人達が沢山集まっていました。どうも、いつもみんな、そこでテレビを見ているよう。
初めに、その音楽番組ではプロノッブさんの演奏がありました。プロデューサー氏も大変で、いろいろ考え、追加の内容としたようで、あれから決まったということでしたが、サロード奏者のジョイ・ディープ・チョードリーという若い奏者の伴奏でした。プロノッブさん曰く「ミニアムジャッドだ」とのこと。確か春なので「ラーガ・ヴァサント(春)」ターラはエクタール(12拍子)だったと記憶しています。次に司会者が私のことを紹介してくれます。
「さあ、次は日本からタブラを勉強に来ている、ミスター・アキオ・チャチャタニの演奏です(インド人に「ツチ」の発音はムリ)。彼は沢山のウースタッド(名人)について学んでおり、素晴しい演奏を聴かしてくれるでしょう。ではどうぞ!」
「ええっ!?」
でも、私の演奏が始まると、一緒に観ていた周りの人達も、「おおー、ジャパニだ!」と喜んでくれたので、気を取り直します。が、ちょっと失敗があったりの、嬉し恥ずかしのテレビ異国デビューと相成りました。
次の日、ボーバジャール通りを歩いていると、薬局の店員が手招きしています。何だろうと行ってみると
インドの恐ろしい病気の一つに「肝炎」があります。いろいろ型があったりしますが、インド人自身、多分これをもっとも怖れていると言ってもいいでしょう。黄疸が現われ、多くの人が死んで行きます。「ジョンディース」という言葉には、間違いなく皆が大きな反応を示します。ある時、私もそれに罹ってしまいましたが、その経緯についてはまた別の機会に書くとして、ここでは、その体験の中出会った、格別なことを書こうかと思います。
まだ、あまり起き上がれないような状態のとき、泊っていたティベッタンボーディングハウスのペンバ氏が
次の日「来た」というペンバ氏の声で、何とか起き上がって、ふらふら玄関の方へ出てみました。するとまだ戸口の向こう側に、壁にもたれ、だらしなく通路にぺたっと座った、ごく普通の男がいました。多分その辺で力仕事をして生きている、何処かの地方から出てきた男だったんでしょう。上は少し破れ、汚れた半袖下着のシャツ、下は腰巻きのルンギ、みんながそういう格好をしていた頃であり、何の違和感もない40代くらいの、ちょっと小柄な男でした。いや、インドだから30代かな、彼らは、ある年齢になると、急激に老けてしまうので、「おじいさん」と言っても50歳くらいだったりします。そんなにその時の彼は年を取っているようにも見えませんでした。
全く無愛想というようでもなく、少しにこっとしたような、その時こんな男に、一体何ができるというのだろう、という思いを抱いたことを覚えています。多分、ペンバ氏が誰か周囲に私のことを話し、ある友人が「ああ、それならこんなことできる奴がいる、何でも、すぐ秘密の呪法で治してみせると言ってるらしい、なんなら、呼ぼうか」と教えてくれたんだろう、と思います。だからペンバ氏も初めて会う男だったようです。
促されて彼は中へ入ってくると、こちらにとってはいつもの空間、そこですぐに治療は始まったのです。まず、洗面器を用意させました。そしてそれを食事をする木のテーブルの横、えんじ色に塗られたコンクリの床の上に置かせると、その中にいつも我々が使っている水を8分目まで入れさせました。私はその前に両膝をついています。
次の瞬間、彼は私の両手首を掴みました。右手は左手首、左手は右手首を。するとどうでしょう、水中にある彼の指の間すべてから、黄色い液体が流れ始め、水中に広がって行きます。よく見ると、それは私と皮膚を接しているところからであり、何処か一部からというようなものではありませんでした。
私の病状として黄疸が出ていましたので、目の白目の部分なんか、ほんとうにペンキのようにまっ黄色でした。ですから、まるでそれが、彼の魔術、呪術によって、この私の体から抜け出して行き、病根がすべて流れ去って行くような感じでした。彼が帰った後、ペンバ氏と顔を見合わせ
次の日もやってきて、もう一度同じことをやりました。
しかし、呪文を唱え、同じように私の手首を掴んだ途端、みるみる黄色い液は流れ出します。昨日と全く同じことが再現されました。もし、手に何か塗っているのでしたら、彼も早くから水の中に手をつけているので、そのときに溶けて流れ出さないはずはありません。または化学反応だろうか。手の中心部に透明な袋があり、その中に何か入っていて‥‥とかも思っても、何しろ、指の隅々の先端からも、同じようなことが起こっています。彼の人差し指、中指は水面の上に出ています。しかし濡れたその指と私の手首の皮膚の間からは、だらだらと黄色の液が流れ出す、そして、次には肘近くから手首までなで下ろし、まるで体にたまっている毒素を絞り出すかのようにするのです。乳搾りならぬ毒搾り。
初めは綺麗な透明な黄色ですが、すぐに白い液と混ざり合って、汚いような、いわゆる「黄褐色」の液体となって、洗面器は満たされていきます。いかにも人体が生み出した、排泄的な黄色というものです。多分、この色をはっきり見せるために、白いペーストを溶かすのであって、それが化学反応を引き起こすためのものではなかったのだと思います。
さて彼は言います。
そういうことからも、彼が「金儲けのため」にやっているとは思えませんでした。もしやっていたら、彼はすぐに「大金持ち」になっていたことでしょう。変な言い方ですが、需要は計り知れないほどあったのですから。また、同じ理由で、ペテンで金を得ようとしていないこともよく分かりました。何か仕掛けを作るんだったら、そのためだけでも、なにがしかの資金が要ったはずです。
それっきり彼は姿を現さず、こっちの病状は、まあ、彼が言ったほど「けろっと」治ったわけではなかったのですが、それでも少し軽くなって行ったようでした。何度もペンバ氏と顔を見合わせては、
バラナシにサンタ・プラサッドという高名なタブラ奏者がいました。学者的な面があると言うか、グダイ・マハラジという別名もあり、著書もあります。しかし、実際の演奏とのギャップの大きさも、また彼の魅力の一つと言えるでしょう。しかし、残念ながら、少し前に、もっと長く演奏して欲しいのに、お亡くなりになってしまいました。
ある時彼がタブラ伴奏をする演奏会があるので、前日「聴きに行く」とプロノッブさんに話すと、こういうレクチャーを受けました。
さて次の日、いよいよ演奏が始まります。するとどうでしょう、本当にサンタ・プラサッド氏はマイクから下がるように指示を受けました。どうもそれが「お約束」のようです。それだけ「タブラの音がばかでかい」ということの証明のような。バラナシ流派の人にとって「大きな音で打つ」というのは、多分「命がけ」なんだと思います。この辺ファルカバッド流派の奏者には、思いもよらないこと、いや逆に「無駄だ」と忌避されるようなことかも知れません。もっともサビール・カーンだけは例外で、大変に強く、マイクなしでも近くから聴けば、耳が痛くなるくらいの迫力ですが。(あっ、ほんとうに痛くなるわけじゃないですよ。)弟子にも、強い音が出るような訓練を課します。反対にシュバンカル氏の生音は、ほんとうに小さく「えっ?」と思ったことがありました。でも、ステージに上がるとばりばりです。(二人ともファルカバード。)
タブラ奏法の一つに「デレデレ」というものがあります。右の手の平を左右に振って、ペチャペチャといった感じで鳴らします。dheredhereと書きますが、この奏法の達人でもあったサンタ氏は、目にも止まらぬ速さでこれをやってのけます。手の平を使うということは、その手は誰がやったとしても、当然普段のポジションより、少し前に出ることになります。腕も伸びます。しかし、この名人はスピードがそもそも違います。鳴らした後、あっという間に手はタブラの上を駆け抜け、指先はもう床についています。その時には肘の辺りがタブラの鼓面に乗っている状態。またまた、ちょっと古い表現でほんとうに申し訳ないですが、かつてのテレビアニメ「エイトマン」の脚の動きを思い浮かべてもらえば正解かと思います。
しかし、これには付随する条件があったのでした。プロノッブさんが言うには、滑りを良くするためのパウダーをサンタ氏はタブラの前に置く、と。普通なら、そこだと指先に付けるのにやりにくくてしょうがありません。ところが彼だけはそこに置き、そしてこのデレデレの時に付けるのだと。さあ、想像してみて下さい。
まあ、ご想像どうり、これは外れました。本当にやっていたら、チャップリンの「モダンタイムス」、いくら何でもそこまではやりません。しかし、私だけは、指先のパウダーを想像し、一人笑ってしまいました。
しかし、この奏者は本当に偉大な音楽家であり、その妙技というものは、なかなか人の真似できるようなものではありません。どちらかと言えば、伴奏ではなく「タブラソロ」をより得意としていたんではないかと思います。あるときのソロでは、
先ほど「ばかでかい」と書きましたが、別に音が悪いわけではありません。言葉の限界というものです。短い表現ですべてを伝えることはできません。とにかく、どんな小さな音でもクリアーなんです。エエイ、面倒くさい、はっきり書きましょう!この人以上の音を出す人に、私は今までお目にかかったことはありません。断言できます。
「‥‥ゴディゲナダティゴディ、ゴディゲナダティゴディ」
そして、もう一つお得意なのが、ナの連打。
カタックダンスとやるのも聴きました。息子のクマール・ラールと二人で叩きまくりです。ダンサーは多分十代の女の子。どうしてこういう組み合わせにしたのか、全く分らないような舞台でした。ダンサーはほとんど直立、どうしていいのか分らなくなり、まるで固まっているようにも見えました。ただ、足の鈴だけは鳴っているんですが、基本的なビートを刻んでいるだけです。
「よっしゃー、そんなら任せとき!」という感じでしょうか。普通、こういうとき、「任せろ」という意味は、何とかダンスができるように「面倒を見る」のが、年長者に求められることと思うんですが--例えば、簡単なフレーズから段々と難しいものを叩いて行くようにして、感覚を取り戻させる、とか。しかし、そういう思考回路には向かわず、「よしよし、何もしなくてもいい、何とか我々がこの場を持たせるから、大船に乗った気で、そこで突っ立っていればいいんだ」と。でもそれって「意地悪」に思いません?しかし、多分そうではなかったと思います。何しろ、チャンスが回ってきても何もできない、というようなレベルの人達ではありません。インド最トップと言っても過言ではありません。そんなナマッチロイこと言って、お客を失望させてもいけない、とにかく「打てっ、打つんだ!」。
まあ、その凄まじかったこと。
「ははーん、わかった。お前は『まるでキングコングの映画のようだ』とか言いたいんだろう?」
インドの音楽家というのは、本当に個性豊かで、いろいろなスタイルで「自分をアピール」というのがあって、飽きることがありません。インドへ行く前は、ごく限られた演奏家の名前しか知りませんでしたが、「こんな人もいるのか」と、驚きに満ちた思いで、その名前を覚えて行くというのが、何とも嬉しかったものでした。
おそらく、それらの真っすぐに直した釘は、業者の手を通して「再生古釘」として販売されるはず。曲がった釘はいくらでも現われます。直しても直しても、尽きないようでしたが、得られる収入は、ほんのわずかだったと思います。何しろ、遠目にも光った釘ではなく、本当に真っ赤に錆びているのがわかる、大変古いもののようでした。だから、もう柔らかく、簡単に直せたのかも知れません。直して使うと危ないから、溶かして使う方がいいように思いますが、彼らの考えと言うか、システムは違っているようでした。
もっとも、これは私が勝手に思っているだけで、確かめたわけではないのですが、インドでは、たとえ学校を卒業したとしても、すぐに「就職だ」という感覚ではなく、その必要が来るときまで、例えば結婚とか、その日までは特に仕事をするわけでもなく、家で家族と一緒にいることが多いような気がします。妻を貰って一家を構えるには家族を養うための仕事がいる、じゃあひとつ誰かに頼んでみるか、というような感覚。
人生に対する考え方がちょっと違うと思います。エリート達はまた違うんでしょうが、一般の人達の「家族」というものは、大変に結びつきが強く、極端な話、家族のうちの誰か一人が、何処かにつとめておれば、それで結構、皆が食べて行けるので、兄弟、息子、いとこだろうが、一緒に暮らし、必ずしも職に就いてなくても、何となく仲良く、皆が暮らして行く、というような感じです。
しかし、そんな「勤め先」とかを持たない「路上生活者」は、また話が違います。皆、必死で何かをやっています。
「あっ、そうか、ちゃんと頑張ってるんだ」
と感心しきり。
そしてもっと見ると、字が‥‥ベンガル文字でもヒンディー文字でもない、右から左に書く「アラビア文字」なんです。それぐらいの知識は仕入れてインドへは行っていたので、驚いて「ウルドゥー?」と訊くと「ハーン(そうだ)」とのこと。おそらくウルドゥー語を話す北西地域から来た人々なんだろう。コルカタにはインドの貧しい地域から逃れてきた人々が、まともな職を得ることもままならず、路上生活を余儀なくされているという現実があります。その辺は映画とかにもなっていて、「渡河」という映画はそんな内容でした。しかし、子供でも昼間は太陽の火の下で仕事をし、夜はロウソクの火の下で勉強をする、すごい!
でも、正直、その時思ったのは、
「ここまで来てもまだウルドゥーか!?」
というものでした。
日本人だったら、普通そこの土地の言葉を勉強するもの。郷に入っては何とかです。ここはコルカタ、ベンゴリをと。ところがインドの人は自分たちの言葉を何時までも忘れません。それともイスラム教徒だから宗教的理由、コーランを読むために必要だからでしょうか。覗き込まれた女の子はこっちを見上げ言いました。
「ペンシル、ドー」
ドーというのは知りませんでしたので、怪訝な顔で、
「ドー?‥‥ディージエ(ください)?」と訊けば、
「ハーン、ディージエ」
鉛筆が欲しいんだ。
でも、その時は持ち合わせがありませんでした。
枝のあちこちに黒い塊のようなものが見えます。日本だったら「ああ宿り木だ」ということになりますが、そこでは違いました。何とカラスの巣でした。別に山に帰ってたわけではなく、すぐ近くに巣を作っていたんです。だから「イエガラス」。なおもじっと見つめると、
「ん?何だかおかしい‥‥」
そう、その巣は、あの針金でできていたのです。
「そういうことだったのか!」と大いに納得。腑に落ちるとはこのこと。トンビに油揚、カラスに針金‥‥。
日本でも枝で作った巣に、ちょっと針金ハンガーが混じったりしてることはあるでしょう。でも全編これ針金!中に卵があり、そこでひなも育つ。ちょっとは痛いだろうし、いくら寒くなったとはいえそこはインド、まともに陽が当たれば、鉄ならうんと熱くなってしまうんじゃないか?と、他人のセンキを頭痛に病むような。木も重くてたまらんだろうし、強い風でも吹こうものなら、堪えかねて太い枝ごと折れてしまうんじゃないかとか。深くじっと数秒間、たたずむのでした。
「こりゃインドはそのうちきっとすごいことになるぞ」
と思っていました。
80年代までインドは自国の産業保護という名目で、ほとんど経済的に鎖国のような状態でしたが、それがかえって発展の妨げになっていると気付き、開放政策に転じてからのインド、90年代以降は、目覚ましい発展を遂げて今も尚、進撃中です。しかし、それらの元となるのは、こういう背景があってこそのものだと思います。その当時の日本人のインドに対する印象は、無気力だとか、神秘と瞑想の国というようなものが多かったように思います。旅行者として接することの多い公的機関の人、つまり役人などは、確かにとんでもない所があって、それはそれで面白いので、また別に書きたいと思いますが、ところが実際接してみる一般の人たちは、日本人を圧倒するような、エネルギッシュな人達でした。
ところで、あの鉛筆、結局最後まで渡さずじまいで、最後は急遽帰国することになったため、あとから後悔する羽目になりました。「あの時渡しておけば、もっとインドに寄与できたかもしれないのに」と。「俺は後悔なんぞしたくない」とか言う人がいたりしますが、まあ、人間後悔はつきものだと思います。何年か経って、また行ってみると、もうそこには誰も住んでなかったと言うか、そんな作り付けの木造物そのものがありませんでした。きっと頑張った末に、もっといい仕事と住居を手に入れたんだと思います。
(第2話「カラス」終わり)2020.4.22
「帽子は大切だ」
と言い出し、この話につながります。その毒蛇は、どうも帽子をかぶっているのが分るのだろう。
インドの人はあの強い直射日光の下でも、決して帽子をかぶりません。ココナッツオイルをたっぷり髪に塗り付け、クシでセット、
「これで大丈夫だ、お前もやれ」
となります。缶にたっぷりと入っていて、向かい合わせに孔を開け、そこから、かなりネトーッとしたのを手に受けて、その頃はまだあった髪に塗る。でも慣れないとかなり気持ち悪いこと請け合い。頭というより、その塗った手の方が。
いつのことだったか、ある宿屋で、そこの経営者一族の一番若い男の子が、私が入り口の机で毎日の支払いをしていると、声を掛けてきます。ほんとうに他愛のない内容でしたが、やはり、そのクリケット帽が気になり、手を伸ばして勝手に取って、自分の頭に載せます。「俺、審判」てなことをやりたかったのでしょう。ところが、取った後に現われた私の頭が「輝いて」いたので、まるで、引きつけでも起こしたかのように、突然の大笑い。
そのあまりの激しさ、またしつこさに、私より、周りにいた彼の兄達の方が呆然としていました。ただ「お客様に対して失礼だぞ!」とか叱る文化ではないようで、弟に対して何も言いはしませんでしたが、何分間か続いたその間「どうなってんの」というような顔をし、目が泳いでいました。きっとその子は15、6歳には見えたんですが、本当はまだ12、3歳だったのかも知れません。インドの子供は大変ませて見えるものです。それに態度も堂々としています。丁々発止で物を売ったりもできます。あるいは、その子が宿主の息子であり、他の兄に見えたのはいとことか、いわゆる一族のものだったのかも知れません。
さて、その孔をじっと見ていて、
「あっ!」と思うことに気付きました。
‥‥向こうの景色が見えるんです!
でもチラッとではありますが、確かに向こうの明るい薄緑色の壁が見えたのです。もし細い棒があれば、例えばあのゼムピンというやつ、細長い針金を楕円形にぐるぐると、運動場のトラックのような形に巻いたもの、あれを少し真っすぐに伸ばし、そっとその耳に差し込んだなら、何事もないかのごとく向こう側の耳の孔から出てくるというような。
「えー!脳みそはないのか!」
私もそう思います。だから決してそんなことはないと思います。でもひょっとすると、その方が虫の小さな音でもしっかり聴き取れるようになるとか、小動物の脳は小さなもので、貫通する耳道をまたがなくても十分にそのスペースはある、あるいは、あの大きな目がそうであるように、実は透明なウロコに覆われているんだとか。これ以上の追求はしていないので真相は分りません。
「うわ、やっかいだ」
と誰しも思います。所がサッとこのヤモリが現われます。何と頼もしいことか。問答無用で「パクッ」とやってくれ「ハイ、終了」です。虫というのは単に気持ち悪いというだけでなく、毒を持っています。これは冗談ではありません。「何これ、知らん、見たことない」というのが飛んで来て、見事刺され、何日も痛く腫れて困ったことがありました。蚊でも蜂でも、蟻でもありません。蟻と言えば「シロアリ」が大量発生します。3月頃でしょうか。夜の街を流して行きます。各商店の看板のライト、イルミネーションに、無数のシロアリが群がって飛び回ります。しばらくして見ると、隣の店に移動しています、そしてまた次の店へと。まるで挨拶廻りに来ているようです。はて、どこまでそれを続けるのやら。さすがにここまで多いと、まあインドの言い方「ナユタ」とか使いたくなるような数では、ヤモリ君の手には負えないでしょうが、パクパクと食べていることは確かです。
「いいか、こっちの壁は俺のもの。お前のは反対側の壁。だから、当然こっちの壁にある電灯に来る虫は、全部こっちのものだ。ほんでもって、天井は領有権を分け合おうではないか。」
というような感じでしょうか。この種と同じかは知りませんが、爬虫類好きな人はヤモリでもペットにしている訳ですから、インドでは犬と同じでペットにまではしないまでも、嫌ったり追い出そうというような人はいません。食べ物豊富だし、迫害受けず自由だし、まるでヤモリにとって天国のような所ではないでしょうか。
「おっ、しめた下はベッドだ、落ちても痛くないぞ」と。
こういう環境があればこそ、彼らヤモリ一族の生存繁栄が約束されているということでしょう。ここでは日本を比較の対象としましたが、暑い地方、沖縄とかにはひょっとすると大きいのがいるかも知れません。無知なままインドでの印象を綴ってみました。
(第3話「ヤモリ」終わり)2020.4.23
「さーて、次はこの区域へ電気を送って、まあこっちはしばらくなしだな。」
多分こんな感じ。時には、
「あ、やっぱこっちか」
と気持ちが揺れたりします。その結果、電気は点いたり消えたり、その平等さに、適当に選ばれた地区はたまりません。突然の停電にすべての快楽を奪われ、
「ノーシーリング!!」と嘆く他はありません。
「何か理由はあるの?」
と思われるでしょう。はい、あります。大いにあります。蚊を吹き飛ばすためです。もしファンなしで寝たとすれば、蚊の大群に襲われ、大変な目に遭います。先ず覚えるべきインドでの生活のテクニックはこれでしょう。するとつまり、こういう夜中に電気を止められるのが一番人々はこたえます。汗みずくになって毛布から顔を出せば、わっと蚊に襲われ、パッと被ればウウッと息が詰まる、たまらず顔を出せばまたわっと襲われる。はい、この繰り返しです。実際にこういう目にあった人間のみが語れる真実です。初めは自分の出した息を繰り返し吸うことになる「密閉空間」化に堪えられなくなりますが、そこはそれ「慣れ」というやつです、仕方ありません、必ずマスターしなくてはなりませんので。
だからびっくりしたのですが、やはり仕事はすいすいと行ってるようには見えませんでした。
見るに見かねて、さっと新聞紙をテレビの上に広げました。すると、
「おおーっ、さすが日本人!」
と皆感心する。でも普通誰でもそうするでしょ、と思うんですが、どうもそうではないよう、インドでは。
この男、そこまで下手とは。「折り紙付き」と形容したいほど。なにしろ、はしごを移動するのに、ファンを止めなかったのです。無造作にひょいと持ち上げて、動かす。
「ガンッ!!」
ファンに当たる。
「バキン!」
羽根が折れる。すると、次の瞬間
「ブーン」
根元から折れた羽根が飛んでくる。少なくとも長さ50cmくらいはあり、それが入り口で見ていた奥さんの二の腕に当たる。傷を負って、血が出る。
「お前の体はワックス(ロウ)のようだ」
ちょっと頭が混乱してきました。起きたことも起きたことですが、その反応も反応。額に手を当てて「ふーっ」とかカッコつけて天を仰ぐ、外国の映画かなにかのようなポーズでも取るしかないような。
「な、何かおかしくない?」
そう言いたい所、でも素朴な意見の前にはそんなの全く無力でしかありませんでした。
「お前はワックスを知らないのか、キャンドルのことだ!」
とご丁寧に解説。つまりちょっとしたことですぐ傷ができてしまう、ということだそうだ。幸い傷は浅いようで、大したことはなかったようでした。
しかし、そのへまをやらかした男は何も叱責された様子もなく、ちょっと暗い顔はしていても、日当を手渡されて帰って行きました。もし払わなかったら、それはそれで騒ぎが起きたことでしょう。これは、また別のお話として書いてみたいのですが、インド人というのは一人に見えても、決して一人ではありません。彼の背後にはたくさんの仲間がいるのです。
「あの男はペンキ屋なんですか?」
と訊くと、
「いや、その辺にいる男だ」
とのこと。つまり便利屋のようなものなんでしょう。あの末広のはしごを所有しているということで、いろいろな仕事を請け負うということ。
「このままでは暑くて寝ることができない。明日、電気屋ヘ行き、新しいのに付け替えてもらうから、そのファン代を貸してくれ。」
全くどうしようもありません。「やれやれ」といった感じです。結局こっちにまでとばっちりの結末でした。
(第4話「天井の羽根」終わり)2020.6.17
さて、ある日キリット氏から
「今日、父の演奏会があるから、一緒に行かないか?」
と誘われたので行くことにしました。
しかし、実はその日はお腹の具合がとても悪かったのでした。そして、ここが面白いのですが、その後、他の演奏家にも何度かついて行くことがあって、そのたび、いつも思い知らされたこと、彼らはこともなげに訊きます、「一緒に‥」と。「しかーし」それがとにかく遠いのです。「初めに言ってくれよ」と思ったりしますが、タクシーと言うか、車をレンタルしたとかいうのに乗ったはいいが、はて、いつ着くのか?1時間くらいかな、とか思うでしょ、ところが2時間経っても3時間経っても着きません。まるで、そこんとこは誤魔化して、拒絶されないよう連れて行こうという魂胆のようにも思えます。
一方、お腹の具合はどんどん悪くなり、痛くてたまりません。狭い車内で苦しんでいると、バハドゥル・カーン氏は気を利かしてくれたのでした。別の人に命じてダヒ(インドのヨーグルト)を買ってきてくれ、
「これはお腹にとってもいいんだ」
と勧めてくれました。インド式のとてもとても甘い、限りなくおいしいもの、掌に乗る素焼きの壷に入っていて、大好きなものの一つです。しかし、一口食べてみて思いました。
「食べられない。今は食べられない!」
と。お腹は「キュルルルー」です。こんな甘いものが効くはずはないし、だいいち喉を超さない。「うう‥」とかで困っていると、
「食べられないんなら窓から捨てたらいい」と言ってもらったので、その素焼きのカップごと、真っ暗闇の、おそらく田んぼのあぜ道のような所へ投げ捨てました。‥手にはその重みがしばらく残っていました。
後日談ですが、
「お前はあのとき、私がせっかく買ったヨーグルトを窓から投げ捨ててしまった」
とからかわれ、
「あ、いや、ども、あの、その‥」
こういう、ちょっとだけ相手を困らすのもインド流儀の一つだと思います。付言しておきますと、日本のヨーグルトと違って、ダヒというのはそうそう誰でも気安く食べるというものではない、ちょっとだけお高いものでした。
「さあ、ここに。」
と言われるがままに。
「一体なぜなんだー!!?」
という皆さんのお気持ちはよく分かります。
「お前に何ができるというんだ!!」
とも。
ハイ、そうです、何もできません。しかし、当時は日本人というだけで、一種「魔法使い」のようなものだったのです。何しろソニーの小型録音機を持っていたのですから。そのためだけに、息子二人は連れず、ヨーグルトまで買って気を遣って、はるばる私を連れてきたのです。まあ、実際は録音もできる小型ラジカセだったんですけど、同じようなものです。それに「sony」ではなく「sanyo」。でもインド人にとっては全く同じ、だって、綴りで見るとほとんど同じでしょ。発音も「ソニオ」と言っていました。
「さあ」
と促されて、録音ボタンをガチャっと押し込みます。それだけでも当時はなんだかこっちは緊張してしまいましたが、演奏は会場の少し上気したような雰囲気の中、バハドゥル・カーンらしい口当たりのいい、親しみやすい感じで始まりました。
「うわっ、これはすごい!」
ところが、既に先に到着して、舞台で待っていたのは、全く知らない、とても若い青年でした。はち切れんばかりの体躯、つまりまあ、かなり太っていました。もっとも、これはインドでは当たり前、立派な家庭の子女であれば、ほぼ必ず太っていました。しかし、心中「残念」と言う思いは少なからずあったのを覚えています。
だいたい、インドの奏者の大家は、相手が誰かなんてあまり気にしていません。着いてみて初めて「ああ、君か」といったようなものでしょう。若手のタブラ奏者の方は緊張し、恭しく丁寧な挨拶をしてくる、それを鷹揚に「しっかり頼むよ」と肩をポンポンしたりして励ます、という構図です。だから、名前を適当に言ったんだと思います。あるいは、その予定だったけど、都合で変更になったとか。
と、もし問われれば、困ったことになったでしょう。何しろ、インドには「タブラ奏者」というのは、それこそ山ほどいるんであって、ちょっと外国へ行く「チャンス」を掴んだ者(彼らはこういう表現を使います)が、「世界的奏者」と当地でもてはやされるのであって、元のインドでは、重鎮みたいなのがごろごろいるというような状態です。ですから、できるだけいろんな奏者の演奏を聴いて、
「はぁーっ、奏者によってこんなにも違うのか!」
と驚くのも「勉強」のうちの一つだと思います。
それに何より「バハドゥル・カーンの演奏が聴ける」というのが一番であって、相手のタブラがどうのっていうのは「小さな出来事」に過ぎないとも言えます。
「おおーっ、なかなかやるじゃないか!」
村人達も大喜びです。サロードとタブラの掛け合いが始まったりしたら、
「ワオーーッ、もっとやれもっとやれー!!」と、手を叩いて、叫んで、身を乗り出して大騒ぎです。そして会場の人々一体となって、コンサートは終わりました。
終わった後、ちょっとそのタブラ奏者に、にこっと会釈をしたくらいで、すぐ帰ったものでしたから、話をするというようなことはありませんでした。
「それがサビール・カーンだよ」と、にこにこ嬉しそうに教えてくれます。
「ええっ?ああ、ほんとうに!そうだったのかあ。それなら何かちょっと話せばよかった。」
つまりプロノッブさん自身が習った、あのケラマトゥッラ・カーン(もちろんウスタード)の息子、忘れ形見、ファルカバード・ガラナ直系唯一の後継者ということなんです。それこそ「弱冠二十歳」という年齢にふさわしい風貌、演奏でした。
しかし、サビールは、形式的に固めるより前に、その基礎となる筋肉の動き、力強さや柔らかさ、滑らかさなどを鍛える練習をとことんやらされたのだと思います。お父さんがケラマトゥッラ・カーン、お祖父さんがマシート・カーン、二人から習う(普段はおじいさんから)というものすごい環境にありながらも、伝統的な「基礎体力」を作ることに集中させたということです。そういうことから、自分の弟子にも「どの辺に筋肉が付いてきたか」ということを指導してもいました(これはずっと後で分ったことですが)。
というような理由からでしょう、その時の演奏はとにかく、髪を振り振り、とても「元気のいい」演奏でした。
間に入ってくれたプロノッブさんが、とても嬉しそうに「あれをやれ!」というので、教わったちょっと難しいレーラをやると、眉一つ動かさず、「もっと大事な練習がある」といった感じの反応でした。結婚して、初の子が生まれて間もない頃で、奥さんがまだひと月くらいの、ほんとうにまだ小さな赤ん坊を抱いて出て来、ご主人の好きなパン(口が赤くなる嗜好品、味は昔の仁丹そっくり)を作って渡していました。その赤ん坊が今のラティフ カーンです。
忘れられた天才と言うべきでしょう。今、サロードのトップ奏者として活躍してる、アリ・アクバル・カーンの高弟テジェンドラナラヤン・マジュンダール氏も、この頃はこの人の弟子でした。一緒に行ったダムダムの録音スタジオで師匠に命じられるがまま、マンドリンを弾いていたのを思い出します。何かの映画音楽の録音でした。皆からバブンと呼ばれ、自分でもそうノートに書いてくれたので、それが本名だと思い込んでいました。その頃と、後年有名になってからの容貌体躯が余りに違うので(まあ横に倍以上)、なかなか同一人物認識ができなかった訳です。CDに書いてある経歴を読んでいて、師の名前としてバハドゥル・カーンの名前を見つけ「えっ?!」となりました。しばらくその顔写真の顔幅を、指で無理やり半分くらいに狭くして見て、「な、なんと、あの時のバブンだ!」とやっと気づいたのでした。その時の、別々のものが繋がって一つになり、真の理解が訪れるという、得難い体験というのはそうそうあるものではなく、心からの納得感を与えてくれ、なんとも言えぬ安堵感で心を満たしてくれたのを思い出します。もう彼が有名な奏者となり、こっちもそう認識してから何年も経っていました。その辺のことはまたいつか。
(第5話「バハドゥル・カーン」終わり)2020.6.24
ということで元に戻すと、ローカル放送に「ウェストベンガル放送」というものがありました。
「最近、日本人が私にタブラを習いにきてるんだ」
とでも話したんでしょう。
「えっ、面白そうじゃないか、今度の企画に使おうかなあ」
となったんだと思います。
とプロノッブさんがレッスンに来た私に訊きます。
「えっ」
習い始めて半年、今の世の中には3ヶ月くらいで、えらく上達する日本人もいるようですが、当時の私は、まあ何とかタブラ演奏の仕組みが分ってきて、形式通りに叩けるようになり出したくらいの段階で、とても人前で、しかもいきなりテレビだなんて、できるわけがない、と思ったものでした。
というようなご意見もあるとは思います。しかし、「そのまま打つ」というのが、なかなかこれがどうして。タブラの特徴として、途中で失敗した時、それを打ち直して、続けて進めるというのは、とてつもなく難しいと言えます。インド音楽やられている方はご存知だと思いますが、ターラというものの存在です。リズムの周期のことであり、それから外れないように続けなくてはなりません。ということはすぐ打ち直してはいけないのであり、初めは必ずターラを見失い、演奏ストップとなってしまうからです。
本番まではまだ余裕があったので、そのプロデューサーの家に夕食に呼ばれて、行くことになりました。その日は何らかのプジャ(お祭り)だったので、玄関のドアを開けると、室内は小さなランプやロウソクで、ほのかに明るく、すぐ足下には白い米の粉で、見事なデザインの、細やかな絵が描かれていました。女性がプジャの際描くものだそうで、一家の主婦のセンスの見せ所、と言った所でしょう。コーラムとかランゴーリと呼ばれるもののようです。(インド人、ペンキ塗りは下手でも、こういうことはとても見事。)
「んんんっ、と、とんでもない」
と驚かれてしまったのは確かです。「冗談ですよ、冗談、はは」というような顔をして、内心は「フー危ないとこだった‥‥」と。
最後にお菓子が出ました。それはさすがに買ってきたものでしたが、白鳥の形をそっくりかたどったもので、とても食べるようなものには見えない、真っ白な陶器の置物のようなものでした。しかし、それ以上絶対に食べられない、もっと大きな理由がありました。苦しいほどに満腹だったのです。それでも「食べろ」というのがインド式というもの。何度断ってもダメ、終いには懇願に近く「じゃ、頭だけでも」と。仕方なく、その砂糖菓子、美しい姿の白鳥の頭だけをがぶりとやり、その素晴しいごちそうの一夕は終わりを告げました。
「よいか、お前はあの家でごちそうになった。だから今度はお前が返礼をしなくてはならない。用意するのはチキンのカレーに‥‥」
何だかグリム童話か何ぞの世界のようです。
「さあ、言っておいた通り、夕食だ」
「ああ、ちょっと残りがある」
と応じてくれた小僧さんがいたので、これも今風に言えば「超ラッキー!」と買い求めた次第。いやー、その少年がとても立派に見えました。焼け跡のイエス、「あんた偉い!恩に着るで!」と。
(第6話「テレビ出演1 プロデューサー」終わり)2020.7.4
「ポンリッジ?」
と全く理解できない様子。あれおかしいな、といろいろ当時のことを語って補足すると、やっと、
「ああ、パンディットジーのことか」
と。つまり、パンディットというのは「先生」のことであり、それに「さん」の意味のジーを付けて呼んでいたわけです。ちょっと速く読んでみて下さい、ほら「ポンリッジ」と聴こえるでしょう。しかし、こっちは固有名詞と思い込んでいるので、呼び捨てはいかんと「ポンリッジさん」と言ってたんですが、これって重複ですね。
とプロノッブさん。古都バラナシの人は「本場の人」という意味合いが強く、尊敬の念を込めての呼び方と言えます。カルカッタが音楽的に重要な都市となったのは20世紀に入ってからのことであり、ラクナウやバラナシとは歴史が違います。ただ、イギリス統治が進むにつれ、多くの音楽家がカルカッタに集まったのも事実です。各藩の宮廷の仕事がなくなり、近代都市の富裕層を求めてのことだったようです。
って思いましたね。だって、たった今タブラ伴奏していたのが、まぎれもない私の先生。なんで私のことを装飾する必要があるの?まるで「虚栄心に満ちあふれた人間」のような。でも、まあ、こういうことってどこの国にもあるんだろうな、と渋々納得。と言うか、親切心であり、より見栄えがよくなるように言ってくれたということ、日本でも果物をぴっかぴかにしたり、綺麗な紙で巻いたりして売っている、あれと同じようなもの。きっと、プロノッブさんもその方が良かったんだと思います。「どうだ、ウスタードに習うようなことを自分は教えてるんだ」という自負。
「お前、ゆうべテレビに出て、タブラひいただろう?」
「ああ、そうだ」
すると無言で手を差し出し、握手と相成りました。
反応と呼べるのはこれだけでしたね。
(第7話「テレビ出演2 演奏」終わり)2020.7.4
「メディスンマンに会ってみないか」
と枕元で訊いてきました。
ちょっとでもと、いわゆる「藁にもすがる思い」で「OK」と返事しました。メディスンマンと言えばアメリカインディアンの呪術師が有名ですが、まあ、人類、どこの民族でもあるもの、しかし、奇術化したショーとは違い、「治癒を目的とした呪術」、一体どんなことをするのか。とてもつらい時期でしたが、その辺の好奇心はなくなっていませんでした。
「手を入れろ」
と言います。前屈みになり、両手を揃えて、ぴたっと手の平が洗面器の底に着くように置きます。手首の少し上くらいまでが、水の中に没しました。
すると何やら口の中でごにょごにょと呪文を唱えているのが聴こえます。持って来た小さな布袋の中から、二つのものを取り出しました。一つは3センチくらいの細い小枝です。それを水に浮かべ、次に白いペースト状のものを小さな容器から人差し指で掬い、水に溶かします。少し白っぽく水は濁りました。その時既に彼の手も濡れています。
「こ、これは‥‥」
言葉が出ません。ペンバ氏もじっとすぐ横で見ていましたが、全く同じ。呼び寄せた彼こそが驚いているようでもありました。
「あれは一体‥‥」とお互い同じようなことを言うしかありません。二の句が継げない、とはこのこと。
今度は騙されないようにと、じっと彼のやることを観察しました。しかし、全く彼に落ち度はありません。どこにも怪しい動きは見られません。小枝は径が2、3ミリ、長さ3センチくらいのもの、樹種は分りませんが、特段仕掛けのできるような大きさでもなく、色粉が塗られてもいません。水にプカプカ浮くだけです。溶かすペーストは、多分インドの男達、それも労働者がよくやっている、タバコの一種、噛みタバコの時に使う石灰だと思います。どちらもありふれたものです。そしてもちろん彼の掌もよく見ました。何かが塗られているわけでもなく、仕掛けのある、ポケットのようなものがある訳でも、もちろんありませんでした。
「これで終わった。すっかりよくなるだろう。」
2日に渡る治療だったわけです。しかし、もっと驚いたのはその治療代というものです。目の玉が飛び出るほどのものだったかと言うと、いやそれが全く逆。たったの15ルピーだったように覚えています。彼にとってはすごいんじゃないの?と思われる向きもあるかと思いますが、あの頃コーラ1本が1.5ルピーだったか。安宿1泊分ぐらいなものだったように思います。どちらにしろ、150ルピーはもちろん、500ルピーと言われても「まあ、仕方ないか、こんなことだから」と、払ったであろうような額からは、ひどく桁が少なかったことは確かでした。ペンバ氏も
「なんでこんなに安いの?」
と、狐につままれたような反応。
「あれは一体‥‥」
と半ば呆れるような。この時のペンバ氏にはひとかたならぬ御助けをいただき、感謝の極みだったのですが、この魔術はティベット人の彼にとっても、ましてや日本人の私にとっては尚のこと、何とも言えない不思議感に満ち満ちた経験でした。
(第8話「魔術師」終わり)2020.7.6
「いいか、きっとこうなる」
と、二つのことを予言。
一つはこう。相手奏者が
「もっと後ろに下がって」
という指示を出すはずだ、多分マイクから1メートルくらいは離れるはずだ、と。そしてもう一つは、
「えっ、うそっ。」
と今の人なら言いたくなるような。(ちょっと話がそれて申し訳ないですが、80年代つながりで言うと、この時代の初頭、81年82年頃の流行語としては「ほとんどビョーキやねー」があり、もうちょっとしてから、驚いた時に、この「ウソっ」という反応をするというのがありました。前者はほどなく滅びたのですが、後者は多分現在でも生き延びてるんじゃないかと思います。ということで、この時点ではまだない表現でありまして、実際に言ったわけではありません。もし「ドント テル ア ライ」とか言ったとすれば、「いや、本当だ、だから今説明してるんだ」とか、より話が長くなるだけだと思います、インドでは。)
「バス、バス」
それくらいでじゅうぶん、と言った感じで後退を止めます。もしこれが「うるさいからもっと下がれ」というような意味で言えば、さすがにサンタ氏でも怒ります。聴衆に対するアピール、「こんだけ偉大な人なんですよ!」を演出してるんだと思います。そうでなかったら、PAなんか必要ないことになってしまいます。あいにくと、その時の奏者が何をひく人だったか記憶がありません。もちろん名前も。顔は覚えているんですが。温厚そうな人でした。
そして演奏もたけなわとなると、ついにもう一つの予言が「的中」する時が来ました。
「うわっ!ほんとだ!」
「シュルル、シュルル、シュルル、‥‥」
指が床に突き刺さるような風景。音もそんな感じ。引き上げるときも同じ音がします。
「大奏者が、デレデレをやる→手は大きく前にせり出し、床に着かんとする→聴衆は大きくどよめく→その時、同時に指先はパウダーの入れ物の中にしっかり入っている→自動的にパウダーが付着する→手を引き上げ繰り返す→付着する→また手を引き上げ繰り返す→付着する」
これって、まるで自動機械、オートメーションロボットという感じじゃないですか。この予言を聞いたときは笑ってしまいました。プロノッブさんもニャッとしていました。
「蒸気機関車を再現する」と。
別にシュッシュッ、ポッポッとかやるわけではありません。右手を前に出し、左から右に移動させ、遠くに去って行く景色、ちょっと間があって、今度は右から左に移動。
「ああ、戻ってくるんだな。」
さあ、それをタブラでやってみせます。
「ダティゴディゴディゲナ、ダティゴディゴディゲナ、‥‥」
初め大きな音で迫ってくる音、それは本当に「しゃかりきになって」走っている蒸気機関車そのものです。やがて、音は少しずつ小さくなり、彼方に走り去って行きます。しかし音はどこまでもクリアーで、一点の曇りもありません。
一瞬、音が止まります。
「ああ、行ってしまった‥‥」
と、どうでしょう、その絶妙な間の後、再び幽かな鉄の車輪が回転する音が聴こえだします。
すぐそれは、辺りを威圧するかの如くの轟音となって響き渡り、
「も、もどってきた!」
と実感させるのです。しかもですよ、「どっかで方向を変えて」じゃなく、「そのまま後ずさり」をして、後ろ向きに来たことが分るんです。だから、単に「強→弱→強」と弾いたのではなく、打ち方も変えながらやってるわけです。いや、はや、なんともすごい。
「ナナナナナナナナナナ‥‥」
と、凄まじい速さで打ち鳴らすもの。ただ、その時パフォーマンスがつきます。空いている左の指で、鳴らしている人差し指を差した後、そのまま起こして聴衆に
「見ろ、1本指だぞ!」
と、声こそ出しませんが、強くアピールします。
「フフ、何だか子供っぽい」
なんて思ってはいけません。これこそ「インド精神」というものです。「アッピールする心=インド精神」と言ってもいいでしょう。(まあ、もちろんすべてと言ってるわけではありませんが。)
「テテカタゴディゲネダー、テテカタゴディゲネダー、テテカタゴディゲネダー!」
これは本当に最後の部分、実際はとんでもなく長いのをやります。何度かやった後、今度は横を向き、
「息子よ、今度はお前がやれ!」
「わかった、父ちゃん!任せてくれ!」
「デテテテ、タギテテ、クレデテテ、タギテテ、‥‥、クレデッター、クレデーンネタギテテ、デンデンターテテ、ターテテクレデテテ、カタゴディゲネダー、‥‥」
というようなことを繰り広げて行きます。既に書いたように、この二人はベナレススタイルであり、とにかく音は大きく、また、強拍を叩いた後は両手を高く持ち上げます。
この図も想像してもらいたいものです。舞台の下手に2人の大男が、太鼓をドンドコ、バカバカ叩き、時々両手を持ち上げ広げ合っている、それも嬉しそうにお互いを見合い、声こそ上げないが、何とも充実感にあふれている。かたや、舞台中央では、可憐な少女が、なす術もなく立ち尽くしている。
「グワーーン、グオーーン!」
男二人が両手を掲げる、少女は小さくなる。
というご指摘を受けるかも知れません。そんな馬鹿な、‥‥最高の演奏が聴けてるのに、まさかそんなことを、不謹慎だ!
でも、まあ、確かにそんな図に見えなくもありません。あくまで私は部外者ですから、ある面、常に違う方向から見ていたりしたことは、確かです。
ちょっと「極論」に聴こえるかも知れませんが、インドの音楽は「個人がすべて」「個性がすべて」なんだと思います。もちろん、その前にその人の属する「流派」というものがあって、それを無視して語るというのも、つまらないと思います。しかし、その上に立ちながら、それぞれがユニークな演奏を作り出して行くというのが、何とも魅力的な世界だと思います。
(第9話「タブラ奏者1 サンタ・プラサッド」終わり)2020.7.6